ぼんやりと画像を見る。
焦点を画面の表面に合わせると、確かにそれは平面である。
画面に顔を近付けて、何かが浮かび上がってくるらしいこの絵をじっと見つめる。
しかし平面だと思い込んだ認知のままでは、ちっとも何も見えなかった。
この絵の中に奥行があるという。
私はこの絵を絵だとは思わず、景色を眺めるように見た。
しかも、見たいとも思わず、ただその絵の中に入り込むようにして、頭の中にある言語すら排除する。
しばし、ぼうっとその状態に身を置いていると、動かないはずの画像がゆらゆらと揺れ出し、絵は立体感をもってある形を浮かび上がらせた。
瞬きするたびにまたその世界は平面に戻ったりもするのだけど、一度その感覚を覚えると、その平面な世界は容易に立体的な世界に変えることができるのだった。
脳は、とても曖昧だ。
焦点を合わせないことで、違うものを見ることもできる。
"見る"という行為は、注視するだけの意味を持っていなかった。
目は、世界を認知する器官のたった一部分であるに過ぎない。
見ているのは、目ではなく、脳だった。
だから、私は自分の脳が認知する世界だけのことを現実と呼んでいるだけなのかもしれない。
