気流の鳴る音 6 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

ー美がまえにある 


   美がうしろにある


   美が上を舞う


   美が下を舞う


   私はそれにかこまれている


   私はそれにひたされているー


  本のタイトルである"気流の鳴る音"とは何か?


  メキシコの原住民たちは、宗教体験への導き手として、ペヨーテあるいはメスカリートと呼ばれる幻覚性植物を噛む。


  エリヒオという若いヤキ族のインディオが、ドン・ファンの手引きではじめてペヨーテを噛んだ。


  ドン・ファンは歌を歌いながら、彼に少しづつペヨーテを渡す。

  

  ドン・ファンの弟子としてやってきていた人類学者のカスタネダは、彼の意思によらずに肉体の動く様子、おおよそシラフの人間にはできないような躍動する、彼が明らかに"登っている"様子を"見た"のである(私の意訳あり)。


  その様子をカスタネダは、こう表現する。

  "私は彼のまわりでひゅうひゅうと気流の鳴る音を感じた"と。


  ペヨーテは、サボテン科の植物であり、メスカリンをはじめ様々なフェネチルアミン系アルカロイドを含んでおり、アメリカインディアンを中心に治療薬として使用されているが、メスカリンは日本では麻薬に指定されている。


  ペヨーテを適切な心構えと環境条件で服用するとそれは、麻薬のような作用で、鮮やかな視覚、聴覚の共感覚を引き起こすという。

  


  上記にあるナヴァホのインディアンの讃歌の詩の一部にある"せかいにひたされる"という感覚は、このような宗教体験に基づいて得られるものなのだろう。


  それは自分と世界を隔てる壁を取り去り、生きる不安や恐怖を乗り越える勇気を生み出す。


 しかしドン・ファンによれば(の言葉を私なりに解釈するとしたら)このような作用は、準備のできていないものに使用すると、自我が崩壊し、二度と現実の世界には帰って来られない危険性も孕むという。


  せかいにひたされる。という言葉で、思い出した物語がある。


  村上春樹のTVピープルという短編集にある"加納クレタ"という話だ。


  主人公の加納クレタという女性は、いつも男に暴力的に犯されるという体質を持っていて、姉の加納マルタは、クレタが男に犯されるのはクレタのせいではなく、クレタの体の中の水のせいだというのだ。クレタの中にある水が、クレタに合っていない、と。


  マルタは、クレタが自分のように、自分の水を音を聴ければいいのに、という。


  加納クレタは、火力発電所の設計という才を持っていたため、その仕事で社会復帰をする。

  そのお金でガードマンを雇い、最高の警備がついたマンションにも住むのだが、最後はやっぱり男に

襲われて、その男に喉を切り裂かれてしまう。


  しかしそのときにはじめてクレタは、自分をひたす水の音を聞くのだ。


  大昔に読んだときは、TVピープルの他の話はなんとなくわかったが、これだけが全然意味がわからなかった。


  しかし、気流の鳴る音を読んで、なんとなくわかる気がしたのだ。


  ちなみにWikipediaによると、カスタネダの著作は後年、信憑性が疑われ、創作であったと一般には認識されているという。


  確かにペヨーテが"準備のできていない者"に使用されると、ドラッグのように乱用され、社会は混乱することは目に見えている。

  なので、創作である。とした方が生産的な社会では好都合ではあるだろうとは思ったりする。


  ペヨーテは、せかいにひたされている自分を思い出すため(意訳だが、文明が起こる前の死を明確に恐れていなかった力に満ちた動物的な時代を生きていた人間、彼岸のせかい)、つまり因果や意味を乗り越えるために、本来の生きる力を得るためにほんのちょっとだけ手助けしてもらうための道具なのだろう。


  モノを所有するほどに、未来がわからない、この先に幸福が約束されていないことへの不安や恐怖を乗り越えるためのチカラ。


  加納クレタの水は、男たちの生きるチカラを呼び覚ますなにかであったのかもしれない。 

 それは、本来の男の性。女を傷付け、奪うことで自らの命を繋ぐための暴力的な衝動である。


  もし彼女が、自らのその性質に気付き、自覚する術をもっていたならば。

  彼女が生きている間に彼岸を体験する機会があったのなら。

  その力を体感し、そしてその力の自覚においてまた、それを制御する方法を習得できたなら。


  それらがすなわち、自分の中にある水の音を聴くという表現で暗喩されているのではないか。

  



ーわれわれの行為や関係の意味というものを、その結果として手に入る「成果」のみからみていくかぎり、人生と人類の全歴史との帰結は死であり、宇宙の永劫の暗闇のうちに白々と照りはえるいくつかの星の軌跡を、せいぜい攪乱しうるにすぎない。いっさいの宗教による自己欺瞞なしにこのニヒリズムを超克する唯一の道は、このような認識の透徹そのもののかなたしかない。

  すなわちわれわれの生が刹那であるゆえにこそ、また人類の全歴史が刹那であるゆえにこそ、今、ここにある一つ一つの行為や関係の身における鮮烈ないとおしさへの感覚を、豊饒にとりもどすにしかない。ー