同調と共感 | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。

  やっと、海水の温度が下がってきて、秋鮭も川に遡上するようになったのか。


  連日、師匠から筋子をもらう。

  本当は飯寿司用の銀ピカのオスの鮭が欲しいのだが、生憎、釣れるのはほとんどメスだそうだ。


  自分では、食えもしないイクラをせっせと作る。  

  何せ、アレルギーで一粒たりとも味見ができないものだから、正確な計量をもってでしか、味付けができないことが本当に悔しい。


  職場の子達に分ける。みーちゃんは、うちで食べたい、というから、久しぶりに呼んだ。

  だからと言って、わざわざ買い物するわけでもなく、あるもので許してもらう。  

  いくら丼と、私のどハマり中のしじみ汁と、もう終わりかけの畑の野菜のサラダと、桃色と紫色のじゃがいものポテトチップス。


  いつものように約束の時間よりも遅れてきたみーちゃんが、食卓について早々、現場であったあれこれを話す。


  帰ろうと思ったら、後輩たちに捕まってさあ。

  まあ、内容は、外側から聞けば、実に他愛もない。ともすれば、くだらない。と一言で片付けてしまいそうなことだが、私たちがそう感じるのは、実質みーちゃんが現場監督のような立場になり、威圧的な存在が上にいないからでもあるのだった。


  影で誰々が悪口を吹き込んだとか、言い方が怖くて泣いてしまいます、とか、一人が立場が上のくせに仕事ができないばかりかやるべき簡単なことすらやらない、給料泥棒、とか。

 

  みーちゃんと私からすれば、そもそも悪口が始まったらその場から離れればいいとか、嫌なことは嫌だと伝えたらいいとさ、言い方が怖いから怖いです。と伝えてみたらいいのに、とか思うのだが、実際自分がその若さだったらそうできただろうか?と考えたら、できなかっただろうな、と思う。


  けれどもみんなが、そういう些細なことでも、みーちゃんに相談できるということは、とても素晴らしいと単純に思う。


  後輩たちは、みーちゃんに仕事のあとにそういうことで電話するとき、何度も躊躇うのだと言っていて、それはそれでみーちゃんは、可愛いのだと言った。


  後輩のひとりは、みーちゃんがこんなくだらない愚痴を聞いて、嫌な気持ちになったり、心が病んだりしたら申し訳ないとも言っていたらしく、私は、みーちゃんが、そんな気持ちに共感するわけないのになあ!と笑うと、みーちゃんは、私を睨みつけながら、まあ、そうだけどさ!と不貞腐れるフリをした。

 

  しかし、いやいや、本当はそうじゃない。

  確かにみーちゃんは、女としては珍しく、群れたりしないし、人の気持ちにいちいち共感せず、なんならズバズバと解決策を畳み掛け、時々、後輩たちをしゅん。とさせるのだった。


  しかしそのことを私が指摘してから、最近は、ちゃんと話しを最後まで聞いてから、自分の言い方がキツかったかなとか、あとで考えるようにしているんだ。というから、可愛いのは、みーちゃんの方だよなあと心でこっそり笑う。


  あのさ。私、間違ってたんだ。

  みーちゃんは、人の気持ちに共感できないんじゃなくて、共感しないように理性を働かせているんだって、気付いた。

  だっていちいち全部の人の気持ちに寄り添ってたら、仕事進まないもん。

  みーちゃんは、共感力がないんじゃない。

  時と場合にもよるだろうが、同調性を好まないんだ。



  一人一人と話すと全然嫌な子達じゃないのに、女が集まっていると、不穏な空気に耐えられないことがよくある。

  自分が仲間外れにされたくないがために、誰かが誰かを悪く言うことに乗っかったり、私が少しでも反論しようものなら、正義感を振りかざす空気の読めないやつ!とでも言いたげな視線をチクチクと感じることは今までに多々あった。

  それって、共感じゃなく、同調だったんだ。とやけに腑に落ちた。

  もしそういう雰囲気の場所に出くわしたら、今までなら、は?それ、おかしくね?とか、そんなこと自分にもあるだろ!とか言って、バッサリと人を裁くような真似をすることもあったが、それはそれで私も下手くそだったんだな、と今では思う。

  自分が裁かれている。とその人に感じさせた時点で、私は賢くないのである。
  どんな理由があろうとも、その人の感じたことに正しさも間違いもないではないか。だけど、自分はその話を聞くと、なんだか悲しい気持ちになるとか、でも、こんないいところも見かけたよ。とかいって、その人の怒りや悔しさ、もしくは嫉妬の気持ちに寄り添いつつも、行動(言動)は、同調しない。そういう技術の鍛錬こそが、私に必要なスキルであるのだ。


  もう何十年も、イクラを一粒たりとも口にしていないが、そろそろ大丈夫かもしれない。

  ふと、そんなことを思いついた。

  私がイクラアレルギーだと思い込んでいたのは気の所為で、何度か試したときに出た蕁麻疹も、私がそう思い込むことで、身体が反応しただけかもしれない。

  どうしても味見をしたくて、勇気を出して、一粒、口に放り込んだがその途端。

  あの喉の痒みや狭くなった気道の苦しさを思い出して、歯で潰す前に吐き出した。

  いやいやいや!

  私はイクラに対峙できるメンタルをまだ、持ち合わせていない。イクラを全面的に信頼していない!
 
  食えないものは食えないんだ!
  そう思った途端に、口の粘膜が、ビリビリと痺れるような感覚に襲われて、喉に一気に水道水を流し込んだ。

  不信ではなく、信頼。
 
  不信な心は、隠そうとしても言葉の端々に。その吐き出した言葉の抑揚に出てしまい、仮に無意識にでも、対象の心に届くものである。

  人の気持ちはコントロールできない。
  その人が、思う気持ちを裁く権利はない。

  自分が自分の気持ちをコントロール出来ないように。湧き上がる気持ちに正否をつけられたくないように。

  みーちゃんよ。
  私は若い頃、早くババアになりたかったんだ。
  あの無神経なほどに図々しく、些細なことで簡単に傷付くことない、逞しく生きるおばさんに。

  だけど実際、ババァになればなるほど、配慮というものは必要になるよね。

  気を配り、慮る。
  それは、同調ではなく、共感だよね。
 
  感情的になれば、人はバカになる。 正しい判断ができなくなる。

  一緒に悩んで、苦しんで、そしてそれから一緒に何がみんなにとって良いのかを考える。
  そのことをいつも一番に、思い出せるババアになりたいよね。
  
  うちらのこと。後輩たちは、ちょっと怖いんだろうな。
  だけど、それが、気を引き締められる。という意味なら、良。
  甘やかさない。一番に考えるべきは、子供たちのことである。だからそのために私たちは共に仲間なのである。