どの葉物野菜よりも葉っぱが大きく育ったのは、白菜だ。
なのに、いつまでたっても巻かないと思っていたら、いつのまにか花が咲いてしまった!
なんでだろう。
けれども、菜の花みたいな花を咲かせるとは知らなかった。
でも、白菜の花は、白菜なばなと呼ばれていて、本家の菜花よりも、苦味がなくて美味しいそうだ。
わざわざ、花を咲かせるように育てる人もいるらしい。
イチゴが次々に赤くなる。
食べ頃を狙って、一粒ずつ食べる。
やっぱりイチゴは採れたてに限る。
ブロッコリーか、カリフラワーかどっちか分からなくなったが、株のひとつが枯れかかっている。
でも、すっかり枯れるわけでもないから、まだ生きているのかもしれない。
しかしこの株だけが、青虫に執拗に狙われる。
彼らは本当は分かっているのかもしれない。
次の遺伝子を残せる元気な野菜は選ばず、わざわざ少しだけ弱っているものを食べるのかもしれない。
栄養をもらうと同時に、もう育つ力のない弱い株を土に早く還すお手伝いをしているのかもしれない。
因果で考えると、意思が入り込んでしまう。
もらうとか、返すとか、そんなふうな表現になってしまう。
でも、彼らはただ"そうなっている"というだけで、そもそも与えるとか、与えられるとかの尺度で生きてなんていないのだ。
風のはじまりを特定できないみたいに、全ての命の終わりを命が経験できないように。
はじまりとおわりは単なる区切りでしかなかった。
はじまりとおわりを持たない循環に私が溶けていく。
そう思うと不思議と安寧という言葉が思い浮かぶのだった。








