もののあわれ | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  職場で一番若い子がいて、その子はよく気が利いて、仕事も要領が良いのだが、如何せん、情緒不安定である。


  気分の良いときは、自慢話とも言える話を長々とし続け、他人の話から無理やり自分の話しに繋げて、人の話題を奪う。

  自分にしか、興味がないのだろう。  

  けれどもそれは、ナルシストとは少し違う。

  常に自分を認め、褒めてもらいたいのだ。

  

  職場の人達は、彼女のオンステージが始まるといそいそと自分の仕事に集中し始める。

  私が彼女の話を聞く時は、大抵暇なときなので、うんうん。そうだね。それは、凄い!素敵な考えだね!などと、いちいち相槌を打つのだが、これ以上、話を膨らますなよ!という周囲からの無言の圧を感じて、それはそれで面白かった。


  自慢するぐらい、いいじゃない。  

  自分と他の誰かを比べて、その人を貶めているわけでもないのだから。

  肯定することで、彼女のモチベーションが上がるのなら、それは結果的に子供たちによい影響をもたらすのではないか。

  第一、彼女は若いから捉え方が、柔軟であるとも感じる。

  時々、子供たちを自分の思い通りに動かそうとするときが私の目にもつく。

  でも、気付いたときにやんわりと声をかけると、彼女ははっ!と気付いたように言葉掛けを変えもするのだ。

  人の目が異常に気になるということは、それだけ客観的に物事を見ようとする才能もあるのだろう。  

  彼女がもっと、そのままの自分をありのままに認めることができたら。きっと、いい先生になる。

 そう信じる人が一人ぐらいいてもいいような気がする。

  


  クドカン作品を取り憑かれたように見ている。

  特に面白くないのに、なんでか面白い。

  相変わらずくだらないし、私は何をしてるんだ?!と、無駄な時間を過ごしているような気さえする。


  バカがいっぱいいる。

  クドカンは、完全に世の中のいろいろをバカにしている。

  そんなふうに感じつつ、彼の人に対する大きな愛を同時に感じるのだ。


  彼は様々な作品を世に送り出しつつ、途中、ある作品を書く前に、自分は何をしたいんだ?と自問自答し、おばちゃんのおしゃべりを書いているときが一番楽しい!と気付いて、完成したのが監獄のお姫様である。


  その感覚が私にはよくわかる。

  私が面白いと思うのは、釣りに行ったときの師匠を取り巻く、おじさん、おじいちゃんたちのやり取りである。

  マウントを取り合ったり、かと思えば義理に厚く、仲間意識が強かったり、裏切ったり、裏切られたりする。

  その場面だけで、ひとつ物語が書けそうな面白さである。


  あまちゃんもそうだが、未来講師めぐるも、個性的でそれぞれ欠点だらけの人間が沢山出てくる。それぞれがそれぞれに歪んだ愛で接する。

  でも、だけど、それが何?

  それを無理やり直そうとしなくていいじゃない

  それぞれが、それぞれであることで、いつのまにか補い合っている。

  そしてそれは、運命を変える力があるのだ!と、クドカンは訴えているのだ。(そうなの??)


  正義とか、愛とかを全面に出さない。

  彼にとっては、死すらエンタメだ。

  その押し付けがましくない感覚が、心地よい。

  しかし、キャラクターには、押し付けがましい人がたくさん出てくるにも関わらず!



  誰かが成功したり、どこかの国や街が繁栄する影で、廃れ、見捨てられることがある。


  その廃れ、見捨てられた場所に美しさや面白さを見出すクドカンの感覚は、日本人的な感性だと

思う。


  水芭蕉が終わり、オオバナノエンレイソウが咲き始めた。


  花は咲き、やがて散る。

  

  美しさは永続的ではない。

  しかし、そのことに悲しむことなかれ。

  

  桜は、強い風に吹かれて散り急ぐ。

  満開のときよりも、散り際が美しい。


  東京などで広がったソメイヨシノは、ここにはない。

  ソメイヨシノは、一斉に咲き、一斉に散ることが、戦時中の兵の士気を高めるために都合よく、至るところに植えられたという。


  美はときに、罪深くもあるものだな。

  


TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ


木更津キャッツアイ


大塚英志


柳田国男


本居宣長


もののあわれ


宣長は『源氏物語』の本質を、「もののあはれをしる」という一語に集約し、個々の字句・表現を厳密に注釈しつつ、物語全体の美的価値を一つの概念に凝縮させ、「もののあはれをしる」ことは同時に人の心をしることであると説き、人間の心への深い洞察力を求めた[5]。それは広い意味で、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、宣長は美を見出した[5]


ドイツ初期ロマン派の基本的心的態度を、「無限なるものへのあこがれ」と特徴づけ、ニーチェキルケゴール研究者として知られる和辻哲郎は、宣長の説いた「もののあはれ」論に触れて、「もののあはれをしる」という無常観的な哀愁の中には、「永遠の根源的な思慕」あるいは「絶対者への依属の感情」が本質的に含まれているとも解釈している[4][5]