私は、自分は今は死なない。そう思い込む、もしくは死のことなど思い出しもしない瞬間の中で生がもたらす感覚を享受していた。
屈斜路湖の一角から、飛び出したように丸く突き出た島がある。
和琴半島と呼ばれるこの島は、周囲3.2kmほどの距離だ。
湖の岸には、温泉が至るところで湧いている。
ぐるりと半周した場所にある湖の岸にもあった。
氷結した湖の端っこにそれは水溜まりを作り、白い煙を立ち昇らせている。
真冬でも地熱の暖かさで、至るところの雪が溶かされている。
その地面と木の根の隙間には、青々とした苔が生えていて、虫たちはそこでぬくぬくと春を待っているのだそうだ。
緩やかなトレッキングコースではあるが、平坦な道が続くわけではない。
足跡がなくなった途端、道は消え去り、雪は足を膝まで沈ませた。
ただこの湖に沿って、反時計回りに回るだけだとわかっているのに、誰かが残した足跡が消えてしまった途端、不安な気持ちに襲われてしまう。
湖畔から離れて、山側に足を進めると、薄暗い木々の合間に立って、どこから来たのか、どこへ行けばいいのか、わからなくなる。
ただ辿れば良かった道標をなくし不安と恐怖に苛まれ、無意識から生まれた思考が真っ先に行った作業は、自分の居場所を確認することだった。
自分の居場所を知るためには、自分を取り囲む風景の全体を把握しなくてはならない。
前を向いていただけだった意識が、突然自分を取り囲む360℃に向かう。
自分を知るということも、同じなのだろうと思う。
自分を知るために自分の居場所をまずは確認する。
自分を取り囲む円周に意識を向けて、その移ろいを、通り過ぎた場所にあった目印を、必死に記憶していく。
原生林は規則的な配列で並んでいないようにも見えるけれど、どうしてかそれぞれが、そのままで生きたいように生きていることが、絶妙なバランスであるように感じる。
美しいと思うのは、これが美しいと刷り込まれてきたからなのか、それともそんな経験を介さずとも、生まれたまま持ってきた感覚がはじめから美しさの定義を知っていたからなのか。
鳥の囀りが耳をくすぐり、雪原の白さと湖の青さのコントラストに目を奪われ、冷たい風がほてった頬を冷やした。
自然がそのままで私の横を通り過ぎる。
その感触を味わう過程のことを美しさと呼ぶのだろうか。
自分以外の存在が、自分を取り囲んでいることで現れる世界のありようが、不意に私に触れ合って記憶になった。
かけがえのない、けれども決してそこに留まれない自分という矛盾で、どこまでも続いていくような。





