漬け物や干物は、エコな料理法である。
漬け物は火を通さないし、干物は煮付けるよりも短時間で済む。
小さな魚はなるべく頭も内臓も付けたままで干した方が美味しいという。
頭と内臓に脂があり、それか干している間に全身に回るとされるからだ。
しかし、釣っているとわかるのだが、自分の針ではないものが、内臓に残っている場合がある。
不思議なのだが、針ごと餌を食いちぎってしまう個体がいるということなのか。
それとも海の中に落ちているエサを針ごと飲み込んでしまうのか。
もちろん内蔵には、餌のイソメが残っていることもあるだろう。
食べても問題ないかもしれないが、なんとなく気分は良くない。
なので、食べる時は頭と内臓は取り除く。
売られているものは、釣り物ではないだろうが、捌く時、食べる時にそういったことに注意を払うのは当たり前だ。
既存の豊かさの定義は、手間が省けた分、選択肢が増えることにある気がする。
食べることひとつとってもそうだった。
本来、自分が担うべき責任を他人に讓渡することにより、種類は増えるのだが、過程に触れることができなくなる。
そのことは人から想像力を奪った。
頻度は少なくなったが、時々スーパーに行くたびに、値段が上がっているもしくは、量が少なくなっていることに愕然とする。
けれども、育て採り作るあの過程を思えば、安いということは、誰かのかけた手間で本来得るべき人の利益を奪っていることであり、命を軽んじていることなのかもしれない、と思う。
本物のバルサミコ酢や、醤油、味噌が、じっくりと時間をかけられているからこそ値段が高いということは、その分少しも無駄にできないという気持ちを駆り立てた。
虚構で手に入れられてきたものは、所詮虚構でしかないのだな。
それは見た目の煌びやかさに騙されて、本質を見失う。
物質的な豊かさと精神的な豊かさは反比例しているようだ。
漬物は日を重ねる毎に深い味わいに変化し、干したコマイは噛み締めるほどに甘い。
たくさんの物を広く浅く味わうのか。
それともひとつのものをじっくり深く味わうのか。
感覚の広がりは後者の方がどこか立体的であった。
