今までに8種類の山に登った。
思い返せば初めの頃によく登っていた山は、標高も低く、斜度も緩やかだったのたが、筋力も体力も技術も乏しかったので、それなりに大変だった。
知識がなかった頃よりも、今の方が山が怖いと感じる。
人気の山は景色が変化に富み、登山道も整備されていて迷いにくい。
けれどもだからといって、登ることが楽ではなく、少しの気の緩みで大怪我をすることもあり、運が悪ければ熊に遭遇して襲われる可能性があることが、段々と実感として湧くようになってきた。
新しい山に登る度、その難易度を上げるたびに
恐怖は高まるのだが、その分達成感も大きくなる。
その落差が、登山の中毒性のようなものなのだろう。
変化に富み、険しい環境にある山には、登山口や頂上付近に祠のようなものがあった。
世界各地には山岳信仰というものがあり、日本では神道では山から得られる恵みと火山に対する畏敬の念から祭事を行ったり、仏僧が悟りを開くために登ったりして、山を信仰していたという。
私はそういうこととは関係なしに、暇だし、面白そうだし、体力作りにもなるからという理由で登り始めたのだが、続けていくうちに昔の人達がなぜ山を神様だとして祀り、その苦行に自らを投じたのかを体感として理解できるような気がしてきた。
先日登った斜里岳は、沢を登り、滝を越えて行くコースだった。
所々に洞窟があり、光る苔が生えている。
沢や滝の水は赤茶けた岩盤の上を流れ、そこは酸性が強いためなのか、魚の気配がなかった。
植物の種類は少なく、花もあまり見かけない。
水は飲めず、魚も山菜も捕れそうもない。
積雪の重みに傾いたのだろう白樺が行く手を阻み、頂上付近では、一箇所に全体重をかければ一気に崩れ去りそうな脆い岩が転がっていた。
どうして昔の人は、ここを登ろうと思った!?
みーちゃんが、終わりの見えない道程に半ば怒りながら、その幼い頃から培った体力に任せて、私の前をグングンと登っていく逞しさに思わず笑いが込み上げる。
どこまで行っても安心できる場所が見えず、ひとつの難所を越えるたびに新しい難所が現れる死の予感しかしないのに、そこに現れる風景の美しさにいちいち目を奪われる。
この山は、まるで神様と悪魔を同時に携えたような風貌だった。
時折、エゾシマリスが目の前をチョロチョロと横切って行った。
その身一つで、生きている。
そして、自然は、彼らに身を隠すのにちょうど良い木の洞穴や、食べるのに充分な木の実を与えている。
私にとっては厳しいだけの山が彼らには優しい存在である。
文明に甘やかされて悲鳴を上げる太ももが、本来ただの生き物であった動物としての本能を思い出させた。
どれだけ簡単に生きてきたんだ。
その簡単さに反比例するようにして、精神は軟弱になってきたんだ。
疲れで視界を狭めた額を倒れた枝で何度も打ち付ける。
そのたびに傲慢なくせにさほど高くもない知能が、ハッ!と貶められる錯覚に陥った。
山は確かに神様だ。
いつでも人はそこに跪いてきた。
人を本当の意味で殺すのは、自然ではない。
本当に怖いのは、コントロールできない自然そのものではなかった。
暴走する自らの恐ろしい欲望に向き合うために人は山を崇めたのだろうか。
