自然環境を大事にして、そこで触れ合う遊びを重視している人がいて、その人はみんな、ありのままでいい。とか言って、でもその人自身は、ルールを守らなかったり、約束を反故にしたり、人を慮ることをあまりしない。
確かにその人は、自身がそういったことに囚われず、やりたいことをやっていて、自由だと思う。
でも私は、その人のそういう言葉が好きじゃないし、綺麗事になんだと思える。
みたいなことをみーちゃんが言うので、私もちょっとわかる。と思った。
私とみーちゃんは、自然環境はそりゃ大事なんだろうとは思うし、自然の中で遊ぶことも好きだ。
なのに、どうしてその人のことを不快に思ってしまうんだろうと、しばし考える。
私は、ルールを守り、なるべく約束は守り、人の気持ちを慮ることがあってはじめて、自分の自由があるのだと思っているのかもしれない。
でもそのことが少しだけ我慢だと感じるから、そういうところを我慢しないその人のことを自分の倫理観のようなもので、無意識に裁き、受け入れられないと感じるのだろう。
自然に触れることや、自然の中で遊ぶことがみんなにとって本当に大事なのかどうかは、実はわからないよね。
でも自分たちはそうやって育ってきて、そこで笑顔で楽しそうに過ごす子供たちを見るのが好き。
その部分だけは、その人と共通しているのだろうから、その人の言うことのすべてを拒絶するんじゃなく、その人の持っている自然の中で遊ぶスキルだけを学ばせてもらったらいいんじゃないか?とみーちゃんに言ってみた。
ただ私は、みーちゃんの気持ちはめちゃくちゃわかる。
そして、その人を不快に思ってしまう自分が何となく不快なことも、よくわかるのだった。
みーちゃんは、わざわざ、ありのままでいましょう。とか、言わない。
むしろ、うちにも外にも結構、厳しい。
それが出会った当初は正直、怖いと思った。
なのにどうして私は、みーちゃんを自分から遊びに誘ったんだろうって、不思議に思う。
たぶん倫理観や道徳観が似ていて、不快になる場所も似ているからかもしれない。
でも、みーちゃんは、その不快さの理由を自分の正しさを証明するために使わないから好きだ。
人見知りで、他人にどう思われるのかが気になりがちな私が、心を開いて"ありのまま"でいられるのは、みーちゃん自身が、"ありのままを否定するありのままの人"だからなんだと思う。
子供たちのためにはならないと思っていても、システムのために強いらなくてはいけないことがあることで、内心迷っていることも、ルールを守らない親に対して厳しく接してしまうことも、彼女が、職員を守るためや、そして自分自身の保身であることもよく理解しているみたいだった。
みーちゃんは立場上、職員や保護者会から責められることが多かった。
だけどそれでも、誰かのせいにすることなく、持ち前の頭の回転の速さと思考の柔軟さで、次々と問題を解決に導いてきた。(それは本当の意味の解決ではないかもしれない。仮の妥協案であることの方が多い。)
弱音を吐くのを人を見せるのがいや。でも、みんながわいわいと仲良くしている中に入れないことは、時々寂しいんだと言っていたことがあって、その時私は、ちょっと泣きたくなったのだった。
でも同情する態度は彼女のプライドを傷付ける。
だから、なーんか、めんどくせーやつだな。と言ってみたら、みーちゃんはあはは!と笑った。
最後の夏の爆発的な暑さの中で、セミはその短い命を繋ぐことに夢中になるみたいに、羽根を震わせて、音を辺りに響かせることだけに集中していた。
だから、容易に人の手で捕まえられた。
彼は私の手のひらの中で、それでも鳴くことを辞めず、必死で逃れようと全身を動かしている。
彼らは、彼ら自身の未来のために生きてはいないように見えた。
未来を想像しない部分で、今に命をただ燃やしている。
"あなた"もそうでした。
あなたが切り取る風景にはいつも、"今"が凝縮されていたって思います。
"ありのまま"とは、間違っても、失敗しても、人を傷付けてしまっても、自分がここに生きていることだけは"本当は"許されている。ということだろう。
ただ社会というシステムにおいて、人は一人で生きていけない以上、なにかしらのルールと、それを犯した人への裁きが、必要だというのが"仮の方法"であるだけなのだ。
だからあなたは、いつもこう言っていたんですよね。
ただ一言。
"許す"と。



