シンクロニシティ | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。





  まだ雪が残る知床連山を背景に、たんぽぽの花と花の間をモンシロチョウが舞っている。

  

  そんなのどかな景色で、ふと耳を傾けると、どこからか轟音が響いてきた。



  今日の獲物は、そののどかな景色の裏にあるという。

  背丈ほどの高さの笹薮を漕いで、崖を降りていくとその轟音が師匠の足音をかき消していった。



  ウドは、なんだって、こんな傾斜のきつい場所にしかないのか。

  昨日の雨で湿った土を踏みしめるふくらはぎに力を入れる。



  雨上がりを待ち望んでいたのは、私たちだけではなかった。


  早起きした熊が、フキをなぎ倒して、雨のあとの柔らかい山菜に舌鼓を打ったあとがある。



  傾斜はところどころ、崩れて山肌が裸になっていた。

  しかし、一度まっさらにされた地面は、また新たな草が芽吹き、剥き出しにされた柔らかな土を

硬く覆って、守り始めるところだった。



  なぜ、こんなところでしかウドは採れないんだと尋ねると、みんなが行ける安全なところのウドはみな細いからだ、と師匠は笑った。


  師匠の鳴らしたロケット花火が、熊を恐れさせているのかはわからない。

  が、欲望に忠実であることは、なにかしらの危険と隣り合わせだった。

  

  だから、知恵が必要だった。

  私は師匠の知恵を文字で記された紙で記憶するのではなく、口伝で継承されている。



  あの轟音の正体は、砂防ダムから流れる川の水の音だった。


  戦後、この辺では、硫化鉄を採取していたらしく、その名残がこのダムだという。


  ダムを境にして、川の色は赤かった。





  それからワラビを採るために、山腹の牧草地へ移動した。


  ワラビは群生せず、ぽつらぽつらとそれぞれが離れた場所に生えていた。


  下を見てばかりいるから、わらび採りは迷子になりやすいという。




  ワラビには時折、レアキャラが発生するという。


  それは、茎が紫色をしていて、アクがまったくないらしかった。

 


  コゴミもそうだが、シダ類のデザインはなんとも神秘的である。



  わらびは、仏教に関わる伝説に多く存在しているというが、なるほど曼荼羅の模様は、シダ類のデザインによく似ている気もする。



  山を歩いていると、ふと思うのだ。


  人間が作り出した世界から少し離れて、生き物がそれぞれ利他的な行動を取らずに、ただそこで偶然に重なり合う相互の関係において、自然に淘汰されては、また生まれるという様子を直に見ている。


  ユングは病んだ状態の時に描いた絵が、曼荼羅と似ていることを発見する。


  シンクロニシティ(共時性)は、意味のある偶然の一致のことを意味し、これもユングが提唱した概念だという。


  人は学ばすとも、国や種族を超えて、無意識の深層に普遍的な共通するものが存在している。

  それを"集団的無意識"とユングは名付けた。


  精神が身体にピッタリと張り付いている感覚は、循環する自然の中にいつもある気がしていた。


  利己的に見える自然は、自らの死を持って利他的な結果を生み出していた。


  確かに。食べるために採っていた。 

  だけどそこにある"デザイン"は、私に肉体を生かすための本能を呼び覚ますだけでなく、"続いていくんだよ。"と精神に優しく訴えかけるような自然の言葉を模している。


  あのシダ類の、あの曼荼羅の、円環のデザインのように。