大好きな写真家さんの個展が開かれている街まで、足を伸ばした。
初めて買った写真集は、彼の作品だった。
その切り取り方、その部分を写真に写し撮りたいという欲望は、おこがましいが、私が感じる風景への見方と似ているようにも思えた。
風景を眺めているとき、自然の中に足を踏み入れた時。
心を掴まれるのはまさしく、その美しさ、不思議さの理由を探す前の衝動的な感情だった。
夕暮れのグラデーション、葉の質感、雪の結晶。
それらの完璧とも思えるようなデザインは、人間が想像し、創造するもののすべてが自然の模倣でしかないことを知らしめた。
そう思う瞬間は、心地よい絶望をもたらす。
わからないこと、敵わないことがあるということは、一生、退屈しなくても済む。という希望でしかなかったからだ。
私にとって写真は、見たものから感じた衝動で直感的に押したシャッターの感触でしなかった。
同時にもっともらしい御託を並べてもみるけれど、あとで読み返せば小っ恥ずかしい傲慢な態度のくだらない言葉の羅列だと呆れるばかりだった。
創造という慢心で、ただ生きるだけの営みでは満足できない悲しい生き物の証を残し続けるのが人だ。
最近知った言葉に"環世界"というものがある。
ユクスキュルが提唱した、すべての動物は、それぞれに主特有の知覚世界を持って生きているという生物学の概念である。
鳥も魚もいいなと時々思うのは、自分が人間としての知覚しか持てないからこその考えだ。
自分という小さな入れ物で、世界を丸ごと理解しようとしてもできない孤独。
その孤独で感じれる美しさや不思議のことを矛盾と呼ぶような気がしている。
考えるよりも、感じる。
言葉で説明できない領域にある答えにならない答えのことだ。




