エコという偽善 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  エゾリスが車に轢かれていた。

  目から血が流れ、道路のど真ん中に横たわっている。


  道路脇に車を停めて、車道の端の草むらにそっと置いた。


  キツネやカラスの餌になり、新たな命に還ることを願った。


  師匠の奥さんは、自宅の窓ガラスにぶつかって死んだ鳥を庭に埋めて、手を合わせたと言った。


  師匠は、その話を鼻で笑った。


  師匠は、いい死に方をしない。と奥さんはいつも言う。


  元旦からエゾシカを撃ちに行くからだ。


  師匠は、幼い頃からこうやって生きてきた。

  父親が捕った野鳥やうさぎを母親が絞めて、子供たちに食べさせた。


  食べるものが手に入らない山奥の農家で、お母さんはどんなものでも料理したという。


  奥さんはわりと裕福な家で生まれ育ち、父親のツテでいつもいいものを食べてきたらしかった。


  鶏の首がはねられて、首のないまま走り回る様子を見てから、肉がまったく食べられなくなったという。


  師匠はそんな奥さんにいつも苛立ちを募らせている。


  うちも祖父や父がそうで、祖母や母がいつも怒っていたから、なんとなくわかる。


  でも私は祖父や父や師匠の気持ちの方が理解できるような気がする。


  師匠は、生きることに真摯だといつも思う。


  自然を守るとか、野生動物を大切にだなんて、ちっとも思っていない。


  ただ今あるものをできるだけ長く使って、今、食べたいものを自分の手で捕る。


  広大な土地を埋め尽くす太陽光発電と師匠の狩猟のどっちが、エコなんだろな。といつも疑問に思うのだ。


  直接殺すことと、間接的に殺していること。


  画面の前の言葉を拾わず、繰り返し垂れ流すだけの偽善はいつも、残酷だ。