例えば、庭を造る。
美しいと感じるデザインを自分の手で再現する。
その美しさというものは、どこからやってきたのだろう。
言葉を持っていない頃の自分が捉えていた世界を想像してみた。
そこには思考を介さずにまっすぐに五感を刺激されている自分がいた。
これは、川。
これは、海。
あれは、山。
物事に名前があることを教えられるごとに、自分と世界は離れて行く。
それでもその離れた距離の分だけ、人は高等な生き物である証の感情を手に入れたのだろうか。
美しいものと醜いものを見分ける力で、人は生きている実感を色濃くしていく。
人を見るとき。
自然を眺めるようにして、見ているときがある。
それは自分には変えられない空模様を観察する行為にも似ている。
私が人が美しいな。と思うときはどんなときだろう。
それは、その人が自分のありのままで笑ったり、泣いたり、怒ったりしているときだと思う。
他人の感情が溢れる瞬間に、自分の感情が呼応したとき、離れて行った自然が自分に引き寄せられたような感覚になった。
時間の箱庭で、それぞれの物語が上映されている。
手触りのない意識でそれを読んでいるのに、手触りのない意識がそれを現実だと認識していることの不思議。
