実り | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


  じゃがいもが根ではなく、茎であることは学校で習った。

  それに対し、さつまいもは同じ芋でも根である。

  落花生が地中になることを知ったときは驚いた。

  しかもアーモンドやクルミとは違い、ナッツではないという。

  アーモンドやクルミは、木の実であり、落花生は豆だそうだ。

  いちごが野菜に分類されるのに対し、りんごは果実であることと同じである。


  玉ねぎは、根ではなく、茎である。
  土から盛り上がっているのを初めて見た時には、衝撃だった。

  しかし普段からよく観察していれば、玉ねぎの下の部分からヒゲのような根が生えているのだから、可食部が根ではないことぐらいわかるはずなのだ。

  自分は物事…とりわけ自分の身体を作る食物に対して、普段、何の疑問も持たずにいるのか、と愕然とする思いだった。

  畑になっている野菜を勝手に取ると、師匠に叱られる。

  厳密に言えば、許可なく収穫することを咎められるのではなく、食べ頃になる前に獲るから叱られるのだ。

  畑の上ですっかり丸くなった玉ねぎを引っこ抜いたら、師匠にあとであればまだ早い。と言われた。

  葉が倒れただけでなく、緑色が茶色になって、すっかり枯れてからでないと、実が入っていないのだという。

  


  ぶどうはすっかり粒ぞろいになり、いかにも甘そうにその果実を枝からぶら下げていた。


  こっそり食べているところをまたもや見つかり、だからまだ早い!と怒られる。


  茎が黒くなって、香りが強くなってきてからじゃないと甘くないんだと。


  未熟なぶどうの果実は、酸っぱくて種が果実にまとわりついて離れない。


  その点、鳥やエゾシカはよく熟知している。


  去年のかぼちゃは、ほとんどが実の入った美味しいものばかりが、エゾシカに食べられていたらしかった。


  そういえばスナップエンドウも、食べ頃になるまで待っているうちに、すぐにスズメが豆が膨らんだ柔らかいところだけを先に食べていたのである。


  どちらが先に食べ頃を見つけるか。

  スズメと私の戦いであった。


  時々、畑の隅の土に小さな穴が開いている。

  スズメがそこに羽を擦り付けて、砂浴びをしているのだ。


  その様子が可愛らしいと眺めていたのだが、どうやら彼らは身体についている汚れや虫をお風呂に入るみたいにして、落としているらしかった。


  スズメにはノミがついている。

  なので、古い家の換気扇の巣をそのままにしていると、家の中にノミがばらまかれるらしかった。


  ぴーちゃんは、ノミとは無縁だ。

  怖がって水浴びもしないし、お風呂に連れて行ってもその温かさに眠くなるだけで、ちっとも洗面器に張ったお湯に浸かろうとはしない。


  私の管理下に置かれ、与えられたエサだけを啄む。


  


  師匠が去年畑にばらまいたハタケシメジの菌が、見事に根付いた(厳密に言えば根はつかないのだろうが)。


  室内の菌床栽培で育てられたキノコとは違い、歯ごたえも味も抜群に濃い。


  ぴーちゃんは、畑の雑草のはこべがすこぶる大好きだ。


  まるで、隔てられた自分と自然の距離を埋めるかのようにして、貪り食べる。


  自然の形から程遠いものほど、なんだか気持ち悪いと感じる。


  けど、自然の形って、なんだ?としばらく考える。


  それは自分の支配下に置けないものたちの営みで、循環しているもののことかと思う。


  ノミはスズメの身体の血を吸いながら生き延びている。


  私が、鶏の肉を食べて生き延びていることと同じだ。


  野生動物は自分を脅かす敵の全てを排除する術を持たない。


  しかしそのことで、互いにバランスを取り合っている。


  自然に増えて、自然に減る。


  そのことを忘れたときに、ひとつの種の命は傲慢になる気がした。


  季節の移り変わりに忠実な木々の枯葉が落ちるのをぼんやりと眺める。


  あらゆる植物の実りは、食べられることで次の命を繋いでいた。


  人間よりもずっと、若い命に優しい。


  なんてせつなく、なんて潔いのか。

  人の意思が及ばない自然の世界は。