観察 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  ひとりで彼の家まで、車で行けるようになりたい。


  娘の願いを叶えるべく、再びスリリングなドライブに付き合う。


  我が家との往復は、のどかな牧草風景がひたすら続く一車線の道路ばかりだ。


  彼氏の住む街まで行くには、二車線以上の道路や高速道路に繋がるバイパスを通らなければならない。


  恥ずかしながら私ですら、高速道路を緊張することなく運転できるようになったのは最近だ。


  しかもナビがないと、大きな街はまったく運転できない。


  間違えればすぐにUターンできる田舎道とはわけが違う。


  車道は十字路だけじゃない。

  ロータリーや三叉路、五叉路どころじゃない多叉路の交差点なんて、いまだにどこでウィンカーを上げたらいいのかわからない。


  更に一方通行ばかりの道に入ると、パニック寸前である。


  運転がすこぶる苦手なくせに、好奇心だけは旺盛な娘だ。


  もう迎えに来ることすらしない彼氏なんて別れちまえ。と行ったら、どうしたら会えるのかを考えたのか?と言ったのはママだ。と、言い返される。


  しかし今週の娘は、ネガティブではなかった。

  新しく入った助手さんが優しいらしく、仕事がしやすいようだ。


  患者さんには殴られたり、罵られるそうだが、それについては特に何も思わないらしかった。


  摘便もまったく嫌じゃないし、亡くなる患者さんがいても、ショックな気持ちは引き摺らないらしい。


  相性の悪い先輩のミスのカバーもできるようになったという。


  彼氏とはあまり連絡を取らないらしいが、友達とゲームをしたり、好きなことをしていたら気にならなくなったようだ。


  幼い頃から転校ばかりで仲良くなった友達とも、好きになった女の子とも疎遠になり続けてきたから、人を好きになることは無駄だと思ってきたんだと彼は前、言ったという。


  だから彼の心の中には、人に深入りしない癖が無意識についているのかもしれないと私は勝手に思う。


  結婚したいというのは、今も職業柄、転勤ばかりだから、ずっと自分から離れない人が欲しいからなんだろう。


  看護学校の頃の友達たちは、それぞれみんな離れているけれど、時々グループ通話で話すという。


  娘はそこにたまにしか参加しない。

  しかし友達たちは、それを咎めるわけでもなく、突き放すわけでもない。

  気まぐれに参加しても、昨日会ったみたいに接してくれるらしかった。

 

  みんなと一緒にいて、時々、娘が自分の世界に入り込んで、何の話も聞いていなくても、何も言われないし、変わらず遊びに誘ってくれていたらしかった。


  私のそのまんまを受け入れてくれる友達。

  私に何かを押し付けない友達。

  でも、私が困っていたら絶対に助けてくれる友達。


  人に興味もなく、期待もして来なかった自分にそんな人ができるとは思わなかった。


  そんな言葉を聞いていると、不意に涙が出そうになって、娘の運転に集中できなくなる。


  曲がるべき場所を曲がらず、通り過ぎてはまだ戻る。


  しかしそれもたまには、いいだろう。


  絶対に間違わない方法を教えるよりも、間違えたときに、どう修正するかの方がずっと大事だ。


  相性の悪い先輩は、とろい私にイライラするんだよ。

  先輩はいつもせかせかしてて、落ち着きがない性格だから、課長によく注意される。

  それを見てたら、なんかこんな自分でも大丈夫かもしれないと思ってきた。


  自分がこんなふうに運転できるとは思わなかった。

  自分が看護師になれるとは思わなかった。

  ママも、そう思ってたんでしょ?


  そう聞かれて、確かにそうだと思う。

  なんで娘は、周りの友達みたいにうまくできないんだろう。

  何度も周りと比べてはもどかしくて、自分のやり方を押し付けていた私のことを娘はどんなふうに感じていたんだ?


  それを聞くのが怖く、途端に罪悪感に駆られる。


  でも私の期待に応えていたわけでないと娘は言う。

  やらなきゃいけないと思うことを必死にやってただけ。

  私は弟みたいに人付き合いは上手くないし、なんでもすぐには理解できない。

  でもそんな自分でも、ここまで来れた。

  だから、良かったと感じる。


  だって人は自分の力で生きていかなきゃならないんだって、ママはいつも言ってたし、私もその通りだと思う。


  それでも娘を私の言いなりにさせてきたのかと思いきや、いつのまにかこんなふうにコントロールされているのは私の方なのだ。


  行きたいと思ったら行きたい。

  やりたいと思ったらなんとしてもやりたい。


  食べたくないものは絶対に食べない。

  義理や人情って、なんですか?って感じだ。


  なんだか変わった子だと思われている両方の親や親戚からの目線を遠ざけ、そんなしがらみになんて囚われずに自分の自由のためにまっすぐに生きて欲しかった。


  人は自分の自由が保障されていると思えた先でしか、義理や人情の必要性は感じられないのだとも思う。


  今はそういった物事の順番が反対になっている気がする。


  大切な人のために。という言葉が、自己犠牲の意味になっているように思うのだ。


  人は、大切な人のために何かをすると決意するのではなく、大切だと思えたときに何かがしたい気持ちが湧き上がってくるものなんじゃないか。


  


  日本人は見ることは得意だが、観察することは苦手だ。と、ブロ友さんが書いていらした。


  確かにテレビを見る習慣がついている日本人は、それをただ見ることはできても、観察することができる人は少ないように思う。


  目的は視聴率の多さでもらえる広告費だから、ただ反応が多ければ良い。


  普段から仕事で疲れ果てている人たちは、その鬱憤を晴らしてくれる内容を好むから、考えさせたり、気付かせたりする内容であってはならないのだ。


  なぜ?とじっくり考える前に場面や話題が次々に移り変わる。


  おかしな世界に生きているよね。と娘は言う。


  でも、おかしいのは世界の方なのか、自分の方なのか、そもそも何がどんなふうにおかしいと感じるのか。


  そういうことは、孤独な世界じゃないと考えられない。


  でも、ずっと孤独な世界で生きてきた娘になら、そのおかしな世界の中で、希望を見つけられるかもしれない。


  見る。のではなく、観察する。という方法で。


  娘が運転していると、珍しい動物やその死体に出会うことが多かった。


  しかも動物たちは、娘の姿を見ても、まったく逃げる素振りを見せない。


  娘はそのたびに、どうしよう。困ったなあ。と呟いて、笑っている。


  ゆっくり走るのは、いつでも横から何かが飛び出してくる可能性を想定しているからなんだろう。