民主主義 | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。


  久しぶりにみーちゃんの、子どもに対して我を忘れて、叱る。ではなく、怒る。声を聞いた。

  あまりにもひねくれている子どものことが、みーちゃんは苦手のようだ。

  育ちがいい(経済的背景ではなく、親が常識的で良心的で、程よく叱られ、褒められてきたのだろう背景)のであろうみーちゃんには、正直に気持ちを言葉にできない子のことを理解できないんだと、勝手に私は心で思う。

「ブタ!とかブス!とか言われるのは、まだゆるせるんだよ。
   いや、それもムカつくけどさ。
   なんていうか、隠しきれない嘘を突き通して、人の揚げ足を取り続けられると、先生であることを忘れちゃうぐらい腹が立つ。」

  いつも理性的で、はっきり言いたいことを言いながらも、ちゃんと人それぞれにある価値観やその時々の気持ちを慮り、物事に対して謙虚であるみーちゃんの、人間らしさを垣間見た気がした。

 誰がどう考えても悪いという場面でも、その子が素直に謝ることができないのは、なぜだろう。

 その行為がそもそも悪いと認識していないからなのか、悪いと認識していながらも謝ることが自分にとっての不利益に繋がると思っているのか、そもそも他人の気持ちを自分に宛はめて考える感性や能力が劣っているのか。

  その子のお母さんに時々、出会うのだが、こちらが挨拶しても返してくることがほぼない。
  ふと通りすがりに何度か聞こえてきた会話の内容は、他人への要求と被害者意識を募らせた自己弁護の言葉だった。

  決めつけることはできないが、お母さん自身に時間的にも精神的にも余裕がないのだろうとは感じる。

  いつも思い詰めたような顔をして、まるで外の世界の雑音を遮断するように自分を守ってるみたいに見えた。
 
  娘が、彼氏からやっぱりあまり連絡が来ない。
  いつ会えるの?と聞いても、考えとく。しか言わない。
  なんで、彼女が欲しかったのか?と尋ねると、そういえばなんでだろう?
  出かけるのは、友達ともできるのに。と返されたと、落ち込んでいる。

  私は、反対にじゃあ、なんでおまえは彼氏が欲しかったのか、自分からばかり連絡するのがなぜいやなのか、会いたいのなら自分からどうしたら会えるかを考えているのか?と尋ねてみた。

  娘は、ああ。と言葉に詰まり、ますます自分を責めたようだ。

  


  民主主義を簡単に言うと、ものごとをみんなで話し合って決めましょう。ということだそうだ。

  歴史を辿ると、人の意見の違いを暴力で解決しようとしたり、権力がある人が自分の思い通りに物事を勝手に決めてしまって争いが頻発した出来事ばかりだ。

  人にはそれぞれに自分が自由に生きる権利があるという発見みたいなものは、なんて素晴らしい思いつきだったんだろうと何度も思う。

  だって、社会や他人のために自分が犠牲になる世の中なら、気持ちがあり、意味を知りたいと思う人間は生まれてきたことを後悔することしかできない。

  でも人には本能や欲望があり、命のはじまりは、その本能や欲望から端を発している。

  けれど、本能や欲望のままにみんなが振る舞うと、他の誰かの生きる権利や自由を奪うという矛盾にぶつかってしまう。

  自分の思い通りに生きるためには、他人のそれも尊重しなくてはならない。

  それが民主主義であり、それはある突出した才能(腕力や知力)で他人を支配してきた歴史から人々を解放するための発明なんだと、なんとなく考える。

  自分は殴られると痛い。
  じゃあ、他人はどうだろう?

  自分が決して体感できるのことない他人の感覚を想像する能力こそが、民主主義には必要だった。

  しかし、自分は顔やおしりを殴られれば痛いけれども、ある人にとっては、それが快感になっている場合もあるから、人の心は複雑で深遠なものである。

  みーちゃんは、口うるさいし、子どもたちをよく叱っているし、怒っていたとしても、私にはちっとも怖くは聞こえなかったんだ。

  でも人によっては、優しく諭している風なのに、なんだか震えるぐらい怖く思えるときがある。

  それはなんでかなって考えたら、みーちゃんは根本的に人を拒絶しないなにかがあるように思えた。
  どっかで、仕方ないな。って、そういうときもあるよな。って、心の奥では許してくれそうな感じがする。

  それはみーちゃんの自己受容に至る才能と努力なのだった。

  娘は、行動が遅いし、他人の気持ちに興味がないくせに、彼氏には興味を持ってもらいたくて無意識にわがままになってるって私には思えるけど、私の失敗には、いいよ。ってイライラしないで許してくれるし、息子と違って急かされないから、気持ち的に楽になれる。

  自分が思うよりも彼氏に好きになって欲しいと思うなんてあたりまえだし、でも実際にそうなるとなんだかめんどくさくなるのも、娘なんだ。

  その子の気持ちも、みーちゃんの気持ちも、娘の気持ちも、彼氏の気持ちも、本当に理解しているかはわからないけれど、その心模様を作ったそれぞれの背景は、なんとなく想像できる気がした。

  みんなが同じ部品でできていて、同じ環境、同じ感じ方、考え方だったら、何も問題は起きないだろうけど、その代わりに自分というものすら感じられなくなるんだと思う。

 ぴーちゃんが、まったく自分と同じ動きをする鏡の中の鳥よりも、その鏡の中の鳥と様子が似たコザクラインコのジュリエットちゃんに対して、あんなにも興味を示したのは、なぜだったのか。

  私の口笛を真似して、自分の動きを真似されるととても嬉しそうに近づいてくるのは、どうしてなのか。

  隠れていた食器棚を突然開けると、飛びついてきて、噛み付いてくるのは、なぜ?

  共感と反発を繰り返す様子は、寄せては引く波のようだ。

  その最中に身を置くから、感情をダイレクトに味わえるのだし、そこから一歩引いて見るから、思考は鍛えられる。