自己開示 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  息子が、帰ってきた。

  やっと、学校が短いながらも夏休みに入ったからである。


  電話でもLINEでも、必要なこと以外ではほぼ連絡を取っていなかった。


  なので迎えに行った車内で、この四ヶ月の出来事を一気に聞いた。


  大きな街へ行ったから、少しは変わったかと思ったのだが、四月に家を出たときとまったく同じ格好だった。


  お金は足りているのかと尋ねても、いつも足りる。と言っていたから、贅沢はしていないのだろうなとは思っていたけど、むしろ貧乏生活を楽しんでいる様子なのだ。


  周りの友達は、2クラス合わせて、男の子が五人しかいなく、あとはみんな女の子だ。


  レクサス(しかも自分の持ち物)で登校するお金持ちの子がいたり、学費を自分で貯めて、バイトをしながら生活する子がいたりと、経済的な背景も様々なようだ。

  けれども、みんな親切で、互いに助け合って、仲良くやっているみたいだ。


  どこのスーパーが何時に半額になるかをよく知っていて、お弁当はおにぎりとブロッコリーなどの野菜が一品。


  休日は近所でマラソン、友達と遊ぶときはそれぞれ招待した家主が料理を振る舞う。


  確かにそれなら、お金はさほど必要ではなさそうだ。


  けれども、びっくりした、というか、恥ずかしかったのが、最初に息子が、自分は田舎から出てきたからセンスがなく、服もそれほど持っていないという話をしたら、そのあとに数人の女の子と男友達が、遊びに行った古着屋で服を買ってくれたという話だった。


  息子は特に恐縮している様子もなく、それをさも面白そうに話した。


  行く前は、田舎者のコンプレックスをあらわにしてオロオロしていたくせに、それを逆手に取るようにして、息子は自分の居場所を獲得していたのだった。


  ひどい不器用さのため、ベットメイキングの練習がなかなか上手くいかず、周りからも絶対にテストに落ちると思われていたようだが、今ではクラスで一番早く、美しく整えられるようになったという。


  それも、周りの女子たちが毎日居残りに付き合ってくれて、一緒に練習してくれたかららしかった。


  帰ってきたと思ったら、もう家にいない。

  連日、友達との予定が入っているようだ。


  コイツのコミュニケーション能力は、昔から高いと思っていたが、親がいないところで、それはますます発揮されているみたいだった。


  別にオシャレじゃなくても、ブサイクでも、彼女も友達もできる。


  娘はそのことをいつも羨ましがる。


  同じ姉弟なのに、どうしてこうも違うのか?と、不思議だ。


  春には、同じクラスの年上の友達が、登山に連れてってくれたはいいが、山頂は雪が残るぐらいに寒かったのに、アウターも持たず、しかも半袖で登頂したらしい。


  今日は、電車に乗る寸前までノープランで、昨日の夜中に駅までどうやって行くんだ?とか連絡してきたり、駅に着いたら着いたで、切符が買えないなどと抜かし、私だってしばらく乗ってないからわからん!と怒ったら、その辺の人に聞くからいいや。と、たいして困ってもいない様子だった。


  たぶん俺は、クラスで一番馬鹿だけど、俺以外はみんな賢いからすげーラッキーだ。などと宣う。


  春も夏も秋も冬もいつも同じ服装で困らないのか?と尋ねると、俺は春も夏も秋も冬も、変わらず暑いんだ!と、上半身はMIZUNOのTシャツ、下半身は黒いポリエステル素材の太いパンツ、ポケットにはいつも、鳥の柄のタオルハンカチ。


  俺は、ジャージで入れない場所には二度と行かないからな!と、フランス料理屋で言っていた小学校の頃そのままを周りに受け入れさせることに成功しているのである。


  コイツのコミュニケーション能力の高さは、いいところを見せようとしない自己開示の仕方もあるが、人の見方の方法でもあるような気がする。


  それは、いい部分だけを見ているのではなく、むしろ悪い部分をスルーできるスキルだ。


  ネガティブな感情にならない技術を自然に身につけてきたのかもしれない。


  しかし、子供たちには、勉強させられる。


  私の目の届かない場所にある経験こそが、この子達を作っている。


  それが私を奮い立たせ、そして感謝の気持ちを起こさせた。


  子供たちこそ、社会の希望だ。

  

  心配は尽きないけれど、心配するということは不信が前提にあるからなのだ。


  絶対に大丈夫。

  

  何があっても、ワクワクする材料にしかならないようにできているんだと自分に呪文をかける。


  正直な自分でいられるのは、人はどんな自分でも許されているという神様の慈愛だ。


  しかし、男の子は小さい時はひどく情けないが、大きくなるほどに頼もしい。


  女が考える愛よりも、もっと大きな愛を持っているのだと最近、感じる。


  

↑撮影 息子