最近、一緒に働くようになった人は、なかなか壮絶な過去(私からすれば)を持つ、元ヤン(たぶん)だ。
しかし苦労した分、とても謙虚で働き者であり、私は改めて、自分の仕事の態度を振り返るきっかけにさせてもらえた。
口は悪いが、心が広い。
かなり年下の旦那さんの文句をいつも言っているけれど、人の面倒を見ることを無意識に望んでるように私には見えた。
私も知っているシングルマザーのママ友の話になって、彼女は最近、不良なんだと呆れていた。
近所ではあるが、小学生の子供を置いて、飲みに出かけてしまうから、よく注意するのだと言った。
アイツはまったく子供なんだと言いながら、決して邪険にせず、なんだかんだと世話まで焼いている。
それはそのママ友の寂しさを自分の経験に重ねて深く理解しながら、素直さや純粋さを気に入っているからのように思えた。
一人で満足に育てられられていないのに、次々と子供を生むのはなんでだ?と、時々、思うことがある。
そういった親の子は、寂しくて、わざと大人に叱られるようなことをしたり、いつまでも特定の大人から離れられずに自分でできるはずのことをなんとかやらせようとする。
だけど、今、目の前にいるそんな子供は、社会に必要だから生まれてきたのではなくて、人の自然の理の中、善悪や効率が入り込めない領域の事象のひとつであるだけだった。
親が責任を持って自分の子供を育てなければいけないのは、社会が人間にある悪の部分を互いに監視させ、排除することに好都合ではあるなあと思う。
そして、一夫一妻制も、資本主義社会とは相性がいいような気がする。
一般的に愛の概念が、誰かや何かに対する特定の執着だと解釈されているのではないか?と感じるのだが、それは巷に溢れている恋愛小説や漫画や音楽の歌詞の影響からだと思う。
異性を愛するという過程に愛の言葉を囁き合ったり、イベントを共に過ごしたり、プレゼントを送りあったりする物語がなければ、人はもうその種を存続していくことができなくなったからなんじゃないのか。
それは、人が自然の営みから切り離され、生産的な社会のシステムでしか人が生きられなくなってしまったことにより、異性に対して感情を高揚させる材料が他人が作った物語からでしかなくなったからのように思う。
共食いモルフは、カエルが高密度の卵塊の中から、種の絶滅を防ぐために、仲間を食べる個体が生まれることだった。
カッコウの托卵は、自分では卵を温められない性質を補うようにして、他の種の鳥の巣に卵を産み付ける。
彼らには、植え付けられた愛の物語がない。
まるで、地球の回転が起こす天気や大地の奴隷のように自然の機嫌に抗う術を知らない。
子供たちの寂しさは、そのまま彼ら、彼女たち親の寂しさなんだと感じる。
その寂しさを埋めるようにして、一時、紛らわすかのように何の隔たりもないまま身体を重ね合ったり、酒を介して、他人と過ごしたりする。
共食いモルフとカッコウの托卵は、宗教的な(という表現が相応しいかはわからないが)視点で見れば、ひとつの種だけが繁栄しないための地球の意志だと考えられ、科学的に見れば、常に遺伝子は、種の存続のために互いに殺し合いながら、必然的に地球環境のバランスを保っていると考えられた。
ふたつのことをどうしても同時にできないことにひたすら悩む娘の苦しみを私は、本当には理解してあげられなかった。
私はわりと器用な方ではあるし、先行きの見通しが立つからだ。
でも、その代わりにやっつけ仕事になることが多いし、見通すことで不安が先立ち、チャレンジすることを躊躇う。
あんたの苦しみや悩みを解決してあげられる術をママは持っていない。
けれど、その苦しみや悩みを共有することはできる。
だから、ママがどう思うかなど考えないで、何でもぶつけていいんだ。
そう言うと娘は、少しだけ安心したようだった。
もしカエルやカッコウに、気持ちがあったなら、こんなに残酷な行動をしないだろうと思う。
人には気持ちがあり、他人の痛みを自分の痛みとして感じる。
しかしその強度には違いがある。
違いというよりも、まったくない場合もあるらしかった。
それは性質的なものなのか、環境から来るものなのかという研究も世間では行われているという本を読んだことがある。
その性質を持つものを淘汰しようとしないためにその脳の仕組みを解明することが科学だ。
人の性善説と性悪説は、どちらとも言えないのだと今は思う。
それでも、人が人の、どの命をも生かそうとするその理性は、愛から端を発しているのだと信じたい。
ひとつの正義だけが信じられる世の中には、種の絶滅が待っている。
私は自分だけで完璧になろうとする努力の過程で、自分だけでは生きられない無力さを同時に感じるのだった。
自分は自分でしかないが、他人の存在がなければ自分を認識することができない。
進化とは何?
進歩との違いは?
決してすべてを知ることのできない絶望が、生命を生かしてきたのだという矛盾を受け入れることが謙虚さなのだと思う。
彼女はママ友に寄り添いながら、叱責し続けるだろう。
娘は、自分の不器用さを嘆きながら、私に感情をぶつけ続ける。
その永遠にも思えるループには、ほんの少しの隙間があるんだ。
生きたい!という本能にこそ、ただ唯一の価値がある。
自分と世界の繋がりを思考を介さず感じたとき。
ポン!と階段を一段、上がるようにして、意識が違う世界に行けるような感覚になった。
悲しみも苦しみ悩みも、楽しさも美しさ嬉しさも、同じ価値を持って、私という人間がそこにいるだけだ。
しかし、その過程、その認識の状態は、人の数だけあるから、私は虚しさと満足感の狭間で常に揺れ動く。