手のひらにすっぽり収まる大きさで、なるべく平らな石を選ぶ。
腕を後ろに大きく引いて、地平線に向かって水平に放った。
石は水の表面を三度、飛んでから沈む。
子供たちが歓声を上げた。
すぐに真似をしようとするのを制する。
石を海に投げる前に、前に人がいないかよく見てね。
絶対に人にぶつけるのは、ダメだよ。
そう言うと、子供たちはみんな、そのルールを忠実に守る。
誰もが石を拾うと、一度周りをしっかりと確認する。
やがて投げるために選ばれていた石は、子供たちの想像の世界の宝物になった。
青い石、透明な石、ピアノのような形の石、猫の耳を持つ石。
そのうち、珍しい石を巡って奪い合いが始まるのだが、それをしばらく黙って見ていた。
お星様みたいな形だね!
そんなかわいい石を見つけられて、羨ましい!
それは、しましま模様だね!
そっちは、ピカピカのダイヤモンドみたい!
子供たちが拾ったどの石も、ひとつとして同じ形と色がない。
喧嘩にしていた子供たちも、それぞれに自分の拾った石が、何に似ているのかを次々に私に教えてくれる。
拾った昆布を頭に載せて、おばけだ!と脅かすと、子供たちは怖がりながらも嬉しそうだ。
ここにあるルールはたったひとつだけ。
自分とお友達の命を大切にすること。
石の上は滑るからゆっくり足元を確かめながら歩く。
波打ち際では遊んでもいいけど、遠くには行かないこと。
お友達に石をぶつけたり、押したりしないこと。
岩場の隙間に目を凝らすと、小さな魚たちが素早い動きで泳いでいるのが見えた。
時折、小さな蟹が浅瀬を歩いてくる。
砂で足が汚れるのを嫌がる子や、そんなことはお構いなしにお友達に水をかける子がいる。
そんなふうに小さくお互いにぶつかり合いながら、子供たちは自分と違う命に触れ合って、同時に自分を知っていくのだろう。
子供たちを見ていると、大人になった自分が忘れてしまったものを思い出す。
それは他人にどう思われるかなんてお構いなしに、自分の気持ちに素直になれることだったり、目の前に表れる事柄にいちいち驚くことのできる感性の豊かさだ。
怖がったり、羨ましかったり、汚らしいと思う、一見ネガティブと思われる反応には、本来善悪は付けられないのだということを再認識する。
それらがあるからこそ、自分や他人は守られているのだし、それらを気にしない子がいるからこそ、新しい発見があった。
自然が子供たちと私を繋げている感覚にだけ、身も心も委ねた。
教えられるのは、自分が危ないと感じてきた経験だけだ。
でもその危なさを細かく見ようとするほどに子供たちを制限に向かわせてしまうジレンマに苛まれた。
蟹はハサミで指を挟むし、砂浜にはガラス片が落ちているかもしれない。
それでも私が先に蟹を素手で捕まえて、砂浜を裸足で駆け出してみる。
生きていくことそのものは危険でいっぱいだけど、生きている実感はその危険の先にある不思議な部分にあった。
頭の中に不思議がたくさんあるということは、脳の中に隙間がたくさんあるってことだと思ったりする。
これはこうだ。と決めつければ、脳みそはおのずとその容量を狭めてしまうような気がするのだ。
つくづく人間というものは、遊ぶために生まれてきたんじゃないかと考える。
善悪も損得も介入できない部分でしか、想像力は培われないのではないか。
そしてその想像力を膨らませた部分で、善悪や損得に考えを巡らせる必要性に迫られもする。
心に自由がなければ、現実は生きられない。
生きることは本質的にサバイバルであるからだ。
現実の厳しさは、そのまま自然の厳しさでもある。
そこに立ち向かう勇気をくれたのは、風景が五感を震わせながら、心に湧き上がった好奇心だけだった。
