早朝から、シジミ採りに出掛けた。
潮干狩りだから単純に、潮汐表で調べて干潮の時間を狙った。
しかし生憎湖は、その潮位を上げていて、砂泥の部分はすっかり水に覆い隠されいて、掘り起こせる場所が見当たらない。
そこは人影の薄い、人気のなさそうなキャンプ場だった。
反対側にある砂浜には、アキアジ釣りの縄張り確保のための棒切れが、等間隔に差し込まれている。
トイレを借りるためにすれ違ったキャンプ場にいる管理人のおじいさんが、「今日は肌寒いだろ。」と、話しかけてきた。
世間話をしながら、シジミ採りのベストシーズンはいつか?と聞くと、今が一番美味しいのだと言った。
湖の水の量は、潮汐には関係がないらしかった。
大雨が降って、しばらくしたら海と湖を繋ぐ川ができるから、そこから水が出ていかないとシジミを採ることはできないらしかった。
それはいつかと尋ねると、わからん。自然に聞かないと。とおじいさんは笑った。
そこにある海で、魚が釣れる時期のことも、釣れる魚の種類のことを聞いても、おじいさんは去年のことは教えてくれたが、結局は自然の機嫌だなあと言った。
自然の機嫌。
シジミも採れず、魚はウグイしか釣れなかったけど、私はその言葉が聞けただけで、なぜか嬉しくなった。
絶対や必然が介入できない自然の不思議さや気まぐれさに振り回されることで、人は元々持っているはずの好奇心を刺激されている。
それはまさに、自分の思い通りにならないことに自分は生かされているのだと心から気付くことでもあった。
生きていくということは、予測がつかない出来事にひとつひとつ身を呈して挑んでいくことの連続だ。
明日をも知れない命を生きているからこそ、実感は感情を良くも悪くも揺さぶる。
暇を潰すためにペットショップに寄り、大好きな鳥や魚や爬虫類をただ眺めた。
大きなアロワナは、水槽に近付くと、自らもこっちに向かってきて、その場でしばらく私をじっと見つめていた。
この子は私を認識しているのだろうか。
アロワナの近くにいた小さな魚たちも次々と寄ってきては、塊になって私に注目するような仕草を見せる。
もし私が海の中を覗きながら釣りをすることができたら、その針先を飲み込もうとする魚から、無意識に逃げてしまうかもしれないなと思った。
こんなふうに海の中でも、人と変わらない命の営みを見てしまったら、釣り上げることに罪悪感が沸き起こってしまいそうだ。
しかしそんな考えが沸き起こる部分に自分の偽善を感じる。
言葉が通じないキミたちとの距離の遠さに、私は生かされていた。
野生の鳥たちは忙しく飛び回り、けたたましく囀る。
言葉で認識できない部分で繋がれていく命の神秘にいつも夢中だった。
言葉という発明は、繁殖のスピードを上げたが、同時に自らを破壊に追い込む技術も獲得してしまった。
自然は優しくて、残酷だ。
それは自然に生きる人間にもそのまま当てはまっていた。
どちらかに傾きながら、波のように続いていく。
意志という舵を取り、その海を泳いでいるんだ。
潮汐表だけでは読み取れない自然のリズムが教えてくれる。
思い通りにならないからこそ、生きることは面白いだろ?と。

