師匠の家庭菜園の網に引っかかった子ガラスが小さく震えながら、最後の力を振り絞って鳴いた。
傍にある電線の上で、けたたましく鳴いているのは、この子の親だろうか。
子ガラスに近付こうとするたびにその鳴き声は大きくなる。
ぴーちゃんが隠れている食器棚の戸棚を突然開けると、突然襲われる。
友達のところのインコも、タオルを被せると大人しくなって、それを捲るとすごく怒るらしかった。
誰が教えたわけでもないのに、本能的に巣を守るような素振りや卵を温めるような動作をする。
そして、その行為を邪魔されたと感じれば、餌をもらっている飼い主にさえ、自分のことなど顧みず攻撃してくるのだ。
パートナーと子供を守るためにパトロールしたり、わざと敵の関心を自分に向けるためにあえてこの目立つ場所で囀っているのかもしれない。
だから私がジリジリと近付いても、本当に危ないという距離まで、そこに留まっているのではないか。
自分にとって特別な愛を守るためには、攻撃的にならざるを得ない本能が、そこにはあった。
この相反するような行動は、鳥たちにとっては愛に、私にとっては攻撃になる。
野菜を守る網を張った師匠(野菜が大事な私)は、カラスにとっては敵になる。
どんなに可愛いと私が思っても、鳥たちにとっては邪魔な敵になってしまう悲しみが、私と彼らの間に程よい距離感をもらたしていた。
望遠レンズだけが、その距離を一瞬だけ縮める。
青空に響き渡る囀りの傍では、一羽の子ガラスがこうべを垂れて、ちっとも動かなくなった。
師匠が、キャベツに群がるテントウムシを摘んでは、一匹ずつ足で確実に踏み潰している。
私の細胞は、空気中に漂っているウイルスに対して、常に臨戦態勢である。
アデノウイルスは勢いをなくしたが、いなくなってはいない。
ムンプスウイルスやヘルペスウイルスのように密かに私の身体の奥で息を潜めているのかもしれない。
私の攻撃的な愛の細胞は、それらを飼い慣らしながら、新しい敵をいつも待ち構えている。
やがて違う愛が、私の息の根を完全に止める日まで。
付箋@KDystopia
その「労力」を否定しているわけではなく、無症状も含めた“感染者数”にこだわってウイルスの拡大を総力戦で止めようとすること、人為的にコントロールしようとすることの傲慢さや不可能さについて疑問を呈している。加えて、その制限によって多大… https://t.co/l3WBl20Rny
2021年07月16日 10:34
子供の頃、大人たちは、水疱瘡やおたふくにかかった子供の家にわざと遊びに行かせた。
予防接種よりも、小さいうちにかかったほうが強い免疫ができるからだと言っていた気がする。
その説は嘘だということになったのだろうか。
子供たちは去年の健康さ(病気にならなかった)のツケを払うみたいに一斉に熱を出したり、水疱瘡になったりしている。
過剰な清潔さが払う代償を虚しさや悲しさを振り払うように観察していたり、その小さな命の本当の力を信じたいと思う自分がいる。


