人の風景 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  人が多くなればなるほど、自分の思いつきの行動ができなくなるし、違う人間同士が近い距離で長い時間を過ごすほど、揉める頻度も多くなる。


  私は元々、生きる気力に満ちているタイプではないのだろう。


  他人を押しのけてまで、何かを手に入れたいと思ったことが一度もない。


  なので、無意識に自分を守るためになるべく外の世界と関わりを持たず、うちにこもって、一人でできる遊びを選んでしまうのだが、やはり私も普通の人間なので、誰かと楽しいとか嬉しいという感情を共有したくなるのである。


  時々大勢と無性に何かをしたくなる。

  黙って座っているままで、話を楽しむというのは苦手だが、何か目的があって、それにみんなで取り組むというのは好きなのかもしれないと最近になって気づいた。


  でも私はわがままを自覚しているので自然と、自分の意見をしっかりと持ちつつも、配慮ができる人間を選んでいるのだ。


  なのに時々、自分の苦手な人間を誰かが勝手に連れてくるときがある。

  私以上にわがままでしかも、その自分のわがままさを自覚していない人間である。

  そして支配的であるくせに被害者ぶる。

  自分にもそういう部分があるから、なおさら同族嫌悪するのだろうとも思うのだが。

  

  私は内心、ちっ!と心で舌打ちするのだが、いやいや。これも、私という器を広げるための神様の粋な計らいなのだ。と思うと、なぜか奮い立つのだった。


  何かをはじめようとすれば、必ず一悶着起きる。

  この間の登山もそうだった。

  でも、私はそういうことを収めるのが苦手なので、めんどくさくて、適当にしていたら、いつのまにかなんとかなっていた。


  普段は天然キャラで、仕事も不器用な子がいるのだが、実はその子が影で優しさスキルを発揮していたのだとあとでわかった。


  ここに来たばかりの頃は、言葉がわからなさ過ぎて書類も書けず、仕事の優先順位もつけられなくて、上司の評価が低かったのだが、結婚し、子供ができ、そして離婚した。

  職場も何度か代わり、そしてまた彼女は私の前に現れた。


  そのたびに彼女は、どんどん頼もしい存在になっていくように私には見えた。


  彼女は自分の周りの世界が変化していくたびに、自分自身を知っていくみたいだった。

   そしてどんな自分も受け入れている…というよりも、受け入れられない自分がいることを受け入れているようだった。


  仲のいい後輩が、冗談交じりにいつも、アイツ、おバカさんだからあ!とか言っていて、そのたび私は、いや、あの子はすごい子だよ。と言いたいのだが、まっすぐに嫉妬してグレるから、その言葉を飲み込む。


  その子は自分は不器用で頭が悪いと自分のことを言うけれど、でもだからこそ、人の気持ちに対して、とても丁寧に接しているのがわかった。


  自分だけの世界に閉じこもっていたら、人のそういう部分は見えなかったなあと単純に思う。


  人が苦手に思える時は、たいがい自分に対して不信感があったり、人と比べて自信のようなもの(本来、誰かと比べて自信を持つのもおかしなことなのだが)をなくしているときだった。


  でもその子の目立たない、目立つかどうかなんてたぶん元から関係ない部分で、人に優しいところを見ると、美しいなあ。と心が洗われるような気持ちになった。


  しかしその子の美しさだって、何かに傷つき、勝手に自分を貶める人の存在があるから見えるものだ。


  だとしたら、何が悪くて、何がいいかだなんて、本質的な意味では決められない。


  みーちゃんは、堅物の両親に育てられたことからくるどこか窮屈な真面目さに、末っ子気質の能天気さを持っていた。


  私に対しては、その末っ子気質を全開に出してくるので、いろんな人を誘っては、そこで起こる揉めごとを他の人に丸投げする。


  いつも思うのが、みーちゃんは素晴らしい上司だなあとその度に思うのだった。


  オレ様、もう人の面倒見るとか、まとめるとか、計画たてるとか、ケンカするとか、そういうのめんどくさい、やだって言ってんじゃん!


と私が言うと、またまたあ。本当は好きなくせに。と言い返してくるから、ムカッ!とくる。


  でもみーちゃんがそうやって私の前に知らない人を連れてくるから、私は人って面白いもんだなって、気づくことができるんだな。



  人の風景も自然の風景となんら変わりがないのかもしれない。


  目に飛び込んでくる自然や人の風景に自分の言葉を当てはめると、それは自分だけの物語になった。


  起承転結。

  序破急。


  乱高下するリズムに心が呼応すると、生きているという実感が沸き起こった。


  心をなくした頃を思い出すと、自然と冷や汗が出る。


  あの恐ろしさは、自分が怖さに目を背けたぶん、生きている実感を無意識に消そうとしていたからなんだと今では思う。


  恐ろしいという感情こそ、生きていたい証だった。


  その恐ろしさをどうにかしようとしなくなったとき、意識は身体にいつのまにか、ぴったりとくっついていたのだった。


  夕陽が、木々の緑が、きれいだ。と思えた心の健全さを取り戻した瞬間を忘れない。


  そのことは、自分が感じる感情には善悪がなく、自分のことは結局自分で決めるしかないという覚悟を持つことだと教えてくれた人たちの存在があったからだった。