昨日のどしゃぶりの雨をアスファルトから急激に吸い上げていく空だ。
雲の残骸が、空気の密度を濃くしていく。
付けているマスクの奥は、窮屈だと悲鳴を上げた。
寒さと暑さの間は、どっちつかずの気まぐれな季節の境目を知らせる。
晴れ上がるだろう空の予測を思いつつも、自転車で行こうかと迷ったのだが、車のキーを握った。
虫の知らせだったのだろうか。
職場についてから、近所に住んでいる友達から、私のうちの前をクマが横切って、そっちに向かったらしいよと連絡が来た。
たぶん夜中には、よく近辺を通っているのだろうが、こんな昼間に人里に現れるとは、普段は気にしてもいない。
ここ何年か、この季節になると、ヒグマの目撃情報が頻繁に伝えられる。
鮭が川に遡上する量が急激に減ったからなのか、ここ最近の天候の狂いによって山の恵みに何か変化が起きたのか、それとも、ヒグマが人里にある畑の方が、効率良く食べ物を摂取できることに気付いたのかはわからない。
人間が知恵をつけて脳が効率的な生き方を自然に選び取っていくように、ヒグマもそうなっているのかもしれないと単純に思う。
裏に住む師匠に電話をしてみたら、家にはいなかった。
私は少しだけ安堵した。
それは師匠がクマに襲われるかを心配したのではなく、師匠がクマを見つけたら、ワクワクして猟銃を手にして追いかけ、クマを仕留めていただろうと思ったからだ。
もちろん、人里に入ることに慣れてしまったヒグマは、撃ち殺すしか選択肢はない。
けれども、何の悪気もないクマに感情移入すれば、おい!捕まるな!逃げろよ!こんなとこに来るんじゃねえ!と願う自分がいるのも確かだ。
それなのに師匠に、今度クマを仕留めたら、牙が欲しいとお願いしている自分はなんなのだろう。
師匠がヒグマを撃ち、それを解体し、内臓を慣れた手つきで切り分ける様子を聞いていると、どうしてか残酷さに震える前に、ワクワクとしてしまう自分がいた。
子供の頃。
父親が撃たれたばかりのヒグマを見せてくれたことがある。
自分の何倍もある大きな体が、何かに吊り下げられて、口から血を流していた様子を見て、怖いと思うのに、好奇心が勝るような不思議な感情に戸惑った。
自然の形をそのままに感じられる環境は、とても贅沢だが、その驚異をまっすぐに感じさせる。
それなのに自然のありのままの怖さを感じる部分で、今、自分が生きていることが奇跡的にも思えて、そこに無条件である自分の命の価値を確かめてもいるのだろう。
自転車で行っていたらどうだっただろうか。
カメラを構える余裕すらなく、悲鳴を上げることすらできず、ただただ全速力でペダルを漕ぐ自分が想像できておかしい。
だけどヒグマの方だって、人に会うのは怖いはずだ。
いや。怖いと思っていることが、危険から遠ざかる術であるのだが、人の怖さよりも飢える怖さの方が勝つ時に、クマも人も凶暴になるのだろう。
