子供たちの肉体は、大人の何倍も生命力に満ちている。
私の子供がまだ小学校に上がる前、彼らはたくさんの感染症を毎年のように我が家に持ち込んできた。
その体験は、自分が幼児の頃に毎年かかっていたような病気をもう一度なぞるかのようだった。
大人同士で過ごせば、さほどでもないウイルスの活動なのかもしれない。
しかしそれは、まだ世界の中でなんの汚れも知らない無垢な身体を通り過ぎると、なぜかより強力になる気がした。
大人の免疫ですらも通用しないようなパワフルさを子供の体から得ていくように。
子供たちが集団生活において、互いに濃厚に触れ合う過程でウイルスは、子供の中にあるまだ芽が出る前の種子にある力を借りて、増殖しているようにも思える。
ここ何年も、水疱瘡が流行らなくなった。
おたふくは、時々流行ることはあるが、滅多に広がらない。
しかしそれに代わるかのようにノロウイルスが増えた。
そもそも、流行性の激しい下痢や嘔吐を伴う病気がノロウイルスに由来しているという概念が自分の中でできたのは、わりと最近のことでもあるが。
自分が幼いときは、ノロウイルスという存在がまだメジャーになっていなかったのかもしれないが、そもそも、今のように周りで下痢と嘔吐の症状が、ある集団で一斉に流行ったという記憶がない。
一昔前までは、子供が病気になることも、大人がそれをうつされることにも、今のようにここまで神経質ではなかった。
それは、まだまだ病気の種類や症状を引き起こす原因のことを大衆が知らなかったせいでもあるだろう。
だから、風邪を引いたらすぐに病院に行けば治るとか、薬を飲めば治るということを信じてもいた。
しかし今や情報は、どんな人でも得ることができる。
それが例え、間違っていても、正しくても、情報の量だけは、一昔よりも膨大になった。
それを自分のために有効に使うためには、それを理解し、選別することのできる元々の脳のつくり、その能力をまっすぐに伸ばすことのできる過去の環境、そして、たとえそれらがなくても、自分というものを深く理解し、受け入れようとしてくれた誰かの愛情のようなものがなければならないと思う。
しかし、けれども。
この知能重視のような今の人間の世界において、その知能の高さゆえに人類が自らの滅亡を引き起こしてしまうと予測される未来。
人間を人間たらしめてきたものの概念が、根底から覆されてしまうような未来への不安、文化が破壊され、アイディンティティが失われてしまう恐怖へ対抗出来る術は、実はそういう優秀ではないとされる人間の中にあるような気がしてくるのはどうしてだろう。
自分とは、なんだろう。
幸せとは、どういう状態か。
自分はなぜ、生きているのだろう。
そういう問いを問いのままにしておける感性。
昔、幼い頃。
じいちゃんのうちの壊れた手動のアナログ時計の秒針が、グルングルンと、凄まじい速さで回るのを見て、気が狂いそうに気持ち悪くなった。
壊れたのなら、止まればいいのに、なぜこんなに狂ったような動きになるのかと。
自分の身体の中にも時計がある。
しかしそれは自然の動きを無視するほどに、自分を壊していく気がする。
突き詰めれば突き詰めるほど、破壊に導かれるということもきっとある。
どうしようもなく苦しく、どうしようもなく自分が嫌いで、それでもやっぱり幸せになりたくて、自分を好きになりたい。
そういう未完成な部分への既知に至る過程。
愛って何かわからないからわかりたい。という行為そのものがすでに愛だとわかること。
上手く言えないけど、わかる力よりも、わからない部分で進む力を私は信じているのかもしれない。
