地図がない | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  娘がやっとひとりで実家まで運転できるようになった。

  息子と比べてどうにも運転が下手なのは、運動神経の鈍さもあるが、土地勘がないことが原因のようだった。

  スマホのマップを頼りにするから、どこを走っているかわからず、常に不安なのだ。
 
  地図を見る習慣がまずない。
  
  自分の行きたいお店に向かって、スマホを片手に歩くことはできても、街の全体像を把握する必要はなかったのだろう。

  たぶん娘の頭の中の地図は、直線上にしか伸びていない気がする。

  進んでいる道の周りに広がる街に興味がないからだろう。

  車や人が通れる道の上でしか、移動していない。

  山に行くとそのことが自分でもよくわかる。

  道を外れ、山に足を踏み入れると、自分はどこにいるのか、途端にわからなくなり、不安になる。

  自分の頭の中に広がる地図は、いつも人が作り、人が辿った直線上にしか広がってはいないのだった。


  急に暖かくなった地上では、虫たちの命を繋ぐための活動が活発に行われていた。

  こうやって何気なく歩いている間にも、自分は何匹ものアリを踏み付けているのだろう。

  それでも、自分の身体よりも何倍も大きな虫を巣に運ぶアリは、逞しく眩しい。

  道なき道を一体何に導かれて、歩き続けているのか。

  その小さな脳は、まるで仲間たちとひとつの地図を共有しているかのようだった。

  小さければ小さいほど、その個々の命は、全体の一部としての自分を潔く受け入れているように見えた。

  コンクリートの小さな隙間の下に広がるひとつの社会は、生産的で効率的だ。

  働きアリ、働かないアリ、生殖のためのアリ。

  どのアリも等しく残酷な運命を持ち、そしてそれは他の生命の営みに深く関わる。

  アリの巣を見つける度に、掘り起こしたくて仕方がなくなった。

  アリは地球上で、もっとも繁栄している動物だと思うからだ。

  虫たちの生態は、生き物としての残酷さをストレートに表していた。

  働いて、働いて、働き続けて。

  君たちの思い描く地図は、君たちの意思では作られていない。

  人間も本当は、そうなのだろうか。
  
  それでもそんなふうに考えることで、悲しく虚しい気持ちを呼び覚ますからこそ、私は人間であるのだった。