理性の暴走 | 想像と創造の毎日

想像と創造の毎日

写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  師匠のうちのリビングの窓越しの風景にずっとレンズを向けているのだが、シマエナガはやって来ない。

  それでも最近は一日に三回は来るらしいから、すっかりこの庭は彼らの餌場として認識されたのだろう。

  師匠が何度も種や果物をやるために外へ出ると、シジュウカラがまとわりつくようにして一斉に集まって来る。

  奥さんが、「餌をやり過ぎなんだよ。ああやって小鳥は可愛がるけど、鹿を撃つ時は目付きが変わるんだからどうしようもない。」と、言うのが、本当にいつも笑える。

  今朝のテレビで、道東でシマエナガを撮影し、地域の子供たちにその様子を伝える活動をしている写真家さんが出ていて、息子はそれを見ながらニヤニヤしていた。

  100kgを超える巨漢の体格を持ついかつい男の人が、ごく小さなシマエナガに夢中になっているのも可愛らしいが、シマエナガが夏の巣作りで自分の羽根を使ってふわふわの巣を作り、その中で雛を育てるのだけど、カラスなどの外敵に壊され、雛を奪われても、諦めずに何度も巣を作り直すという話に感銘を受ける。
 
  無事に育った雛たちが、親が見守る脇の木の枝に六羽ほど一列に並んでいるのを見て、息子が「これ、見てー!えへへ。」とゴツい身体の上にある顔を歪めているのが、気持ち悪いながらも微笑ましい。

  シジュウカラやシマエナガは、とりわけ脂身が好きらしいのだが、スーパーで買った豚肉の脂身よりも、師匠が撃ったエゾシカの脂身の方を好むという。

  野鳥たちはグルメだ。
  抗生物質をたっぷり与えられたのであろう人が食する肉の脂身よりも、自然の中で自然の食べ物を食べて育った肉の脂身の方が、美味しいということを知っていた。



  私たちは増え過ぎた。
  だから自然環境を守るためにそのうち培養肉を食べさせられるようになるらしい。


  確かに私たちの命を繋ぐために、狭く暗い場所で飼われ、病気にならないように薬漬けにされた鶏や、乳を搾るためにコンピューターで管理され、乳房だけを巨大化された乳牛は、その命の尊厳を人間のために無視されるという残酷さの中にさらされている。

  けれども、人間が生きるために必要なタンパク質を生きている動物から得るのではなく、動物の細胞を培養したものから摂取するということが、果たして、人が生きていく上で必要な"生きている実感"というものを満たせるのだろうかと、私は疑問に思うのだ。

  ある人が、"理性の暴走"だよ。と言った。

  あらゆる生き物を傷付けない、そして自分が傷付かない。という目的は、偽善でしかないように思える。

  命が命を傷付け、奪いながら長らえてきた事実を手放せば、人は生まれる。という事実さえ、手放すことになる気がした。

  私たちは一体、何を守ろうとしているのだろう。

  息子の学校から依頼された文章が、町の広報に掲載されてしまい、街ゆく人々に感動した!と言ってもらうのが、嬉しくもあり、恥ずかしくもあった。

  ただブログで書いてきたようなことを簡潔に書いてみたのだが、息子に言わせれば、私の言うことは当たり前のことだという。

  ただその当たり前を言える大人がいないから、斬新さを感じるんだろうと言われ、私はそのことに大人がいかに全体のために自分を犠牲にしているのかを思い知ったような気がした。

  小鳥たちの行動を良く見ていると、可愛い顔をしている鳥に限って、なかなか攻撃的で残忍な行動を取っている。

  生きることに忠実なのだ。

  本能を生かすための理性であることを、大きくなった脳は忘れてしまう。