誰かの得は誰かの損 | 想像と創造の毎日

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  いつも遅刻したり、失敗を繰り返している後輩がいる。

  これは、叱られて当然だなあと思うこともあれば、あれもこれもその後輩のせいにされるときもあって、見ている側からすれば少しかわいそうな面もあるのだが、私は彼女の叱られたことで気持ちをすぐに切り返すことのできるタフさが好きだ。

  管理している側からすれば、その明るさが鼻につくこともあるらしいが、それでもみんな、彼女が不器用なりに一生懸命であることや、人のことを悪く言わないところを理解しているのだと思う。

  今日、彼女と二人で世間話をしていて、ふとマスクの話になった。
  今はいいけど、夏になってこのままマスク生活になるのは嫌だよね。とお互いに愚痴る。

  それからコロナワクチンの話になり、私はワクチンを受けたくないのだと言った。
  すると彼女は、実は私も受けたくないんだと言ったから驚いた。

  でもこの職場の雰囲気では、受けないと怒られそうで、断る勇気が出ないと彼女は言う。

  彼女は彼女なりに、コロナについていろいろと調べているようだった。
  その内容は、だいたいが私と同じだった。

  私は、アレルギー体質だし、インフルエンザに普通に罹患したときはそこまで苦しい思いをしたことがないのに、インフルエンザワクチンを受けた年に限って、今まで出たこともないぐらいの高い熱が続いたから、因果関係はわからないけれど、ただ単純に自分にはワクチンが合わない気がするからいやだった。

  彼女は、こんなに早くできたワクチンをまるで実験されるように打たされる気がして嫌だと言った。
  インフルエンザワクチンも受けることが普通だと思っていたけれど、良く考えてみればそれでもインフルエンザは流行を繰り返している。
  効果があるワクチンもあれば、実はそんなに効果がないワクチンもある気がしてきた。
  そもそも、マスクとワクチンをこんなにも盲信して、それを拒む人を排除する世間が何よりも怖い。

  札幌に行った友達が、札幌にはPCR検査キットの自販機があるんだと言った。

  症状もないのにPCR検査キットで、一体何を証明できるのだろう?と不思議に思う。

  人の行動を制限しなくてはならないほどの怖いウイルスがついたものを郵送で送ってしまえる手軽さに矛盾を感じるし、例え検査したその瞬間に陰性であっても、一歩外に出れば、触れるもののどこにウイルスがあるかもわからないのにだ。

  ユヴァルは、サピエンス全史でこう書いていた。
  世界で一番多い死因は、自殺なのだ。と。

  自由に魚や動物を殺して食べることができず、お金に依存させる社会の中で、働かなければ経済的に困窮してしまう人がいるというのに、飲食店には時短要請をする。
  その間に補助金が出たとしても、その休業の間に損失していくものは、お金だけではないはずだ。

  だいたいグローバルで自由な社会を広めたのは、先住民たちの暮らしを奪ってきた西洋文化だ。

  彼らは、自由と平等という名のもとに、自分たちの正しさを押し付けてきた。

  世界を支配することのできる力は、腕力から知能にとって代わる。

  それらは、ウイルスを初めとした人間に害を与えるものを排除する手段を見つけ、死を遠ざけたが、同時に死を悪者にすることで、逆に人の生き方の多様さを狭めてきたようにも思える。

 人は身勝手さと自由の在り方を履き違えているんだと思える。

 互いに監視し合いながら、生きることにとって一番大事なものを譲り渡す。

  答えが出ないことにイライラを募らせ、自分で見つけたわけでもない多数決の答えを優先することが善だと信じる。

  責任を個人に負わせることで、自分を守るしかないから、いつも誰かの失敗を責めるしかない殺伐とした社会がそこにはある。

  それでも彼女のように考える人がいるというだけで、どこか救われる思いがした。

   みんなのために。が、自分のためであることを忘れたときに、人は残酷になるのだ。

  誰かの得は、誰かの損でできている。
  私が住んでいる場所の豊かさも、そうであるのだろう。 
  そのことをいつもふと、思い出す時間に人間らしさがあるような気がした。