現実という感触 | 想像と創造の毎日

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  今朝は久々に、寝起きの体温が37度を超えた。

  毎朝記録している体温表を確認すると、最後に37度になったのは8月21日だった。

  思い返せばその頃は、ようやく長雨が終わって、本格的な夏らしい気温になり始めたときである。

  それから朝の体温は、高くても36.8度だった。

  めっきり寒くなってきて、朝晩には暖房をつけるのだが、すぐに暑がりな息子に消されてしまう。

  息子に言わせれば、寒い人は上にいくらでも何かを着られるけれど、暑い人はこれ以上脱げないから、寒い人が暑い人に合わせるべきだそうだ。

  寒がりな方が弱いのだから、ウザイほどに健康的な暑がりは、寒がりな弱者に合わせるべきだ!と無意識に思っているから、その言い分に私は一瞬イラっとした。

 しかし、よく考えるとそれは、私のちょっとした被害者意識である。

 寒がりな私って、弱い。
 だから、弱い私に息子の方が合わせるべきだ。
だなんて、随分と傲慢で身勝手な考え方なんだろう。

 なので、上からフリースを羽織る。
 それからなるべく座りこまないように、常にどこかしら身体を動かすことにした。

  立ったまま軽いストレッチをしているだけで、最近はすぐに身体がポカポカと温まるようになった。

  今までは触ると冷たかったお腹の肉も、周りの部位と変わらない温度になった気がする。

  一日の中で、どの時間帯が一番体温が高いのかと、何日か測ってみると、私の場合は寝起きだった。

  運動、食事、お風呂の後かと思いきや、まったく動いていなかったあとの方が高いというのは、驚きだった。

  身体というものは、実によくできていると思う。

  意識はなくなっても、身体は外気の寒さから身を守るようにして体温を上げ続けていたのだ。

  そして、動いている間は、行動や外気で熱が上がり過ぎないようにと、就寝時よりも少し低めに体温を設定しているようだった。

  自分はそのままで、天然のエアコン機能を持っている。

  自らの身体に耳をすませるということは、自分の今の状態を把握し、要不要を見分けることなのだった。



眠たくて仕方がないぴーちゃんを放っておき、ゲームをしているので、このあと息子は私に叱られる。

  先日、息子と食事に行った。

  混んでいたのだが、向かい合って二人座れる席のテーブルが二つくっついるところには、中年のおばさんが一人だった。

  店員は忙しそうに私たちを一度見ただけだったので、ここは席を案内してくれるシステムではないのだろう。

  息子が一人で座っているおばさんに「ここ、いいですか。」と声をかけたのだが、おばさんはちらっと息子の顔を見ただけで、すぐに持っていた味噌汁椀に口をつけた。

  私が目配せで頷くと、息子は腑に落ちない顔をしていたが、仕方なくおばさんと一緒のテーブルについた。

  おばさんと私たちのテーブルを、辛うじて、様々な種類の調味料のトレーが隔てていた。

  私は、そのトレーからサラダのドレッシングを取り出してかけた後に、うっかり自分の前に置きっぱなしにしてしまっていた。

  するとおばさんは、イライラとした態度(のように私には見えた)で、そのドレッシングを奪うように持っていき、自分のサラダの皿にかけると、今度はそれをトレーに戻さずに私たちの手の届かない場所にドン!と大きな音を立てて置いたのだ。

  私と息子は同時にびっくりして、お互いに自然と目を合わせた。

  息子はさっきの無視された一件もあり、もう我慢ができない。とでもいうように、小さく、は?と声に出したので、私は首を横に振る。

  店を出てからすぐに息子は、そのおばさんの文句を言った。

「あのババア、信じられねー!
    無視しやがるし、こっちはわざとドレッシング独り占めしてたわけじゃないのに、なんだよ!あの態度!」

  私はご飯を食べながら、おばさんを右の視界の端っこで観察していた。

  小太りで、ピンクの薄いTシャツを来ている。
  目の前のテレビを見ながら、時々ずり下がってくる銀色の縁取りのメガネを右の人差し指で、くいっ。と上げていた。

  息子が話しかけても言葉を返さないどころか、目を合わせようともしなかった。

  いいですか?とたった一言、言ってくれれば、こちらも、あ、すみません。と気持ちよくドレッシングを差し出すことができた。
 
  おばさんは、ずっと被害者だったのかもしれない。と、考えていた。

  おばさんは家族や友達に自分のことを理解されずに、そしてだからこそ、自分で自分のことを理解できていないのかもしれない。

  世界は、おばさんを傷つけるもので、溢れている。

  誰かと目を合わせれば、蔑まれる気がして怖い。

  自分に自信がなく、また自分に自信を持つということが、一体どういうことであるのかを知らないのかもしれない。

  そんな話を帰りの車中で、ひとりごとのように呟いていると、息子のイライラは自然に治まってきたようだった。

「オレ、クラスの中で一番イライラするのは、目立つ女子の言いなりになって、腰巾着みたいに一緒に他人の悪口を言ってる女なんだけどさ。

  あのおばさんは、そういう女たちにずっとバカにされ続けて、だから自分も、自分より下手に出てくるような相手に無意識で上に立とうとするのかもしれないな。」

  実際、おばさんの経験してきたことも、考えていることも、私たちにはわからない。

  ただ少なからず私も一瞬イラッとした気持ちになって、おばさんをそういう過去と認知を持った人間だと、自分の内部で勝手に作り上げて、気持ちに折り合いをつけただけだった。



  これが現実だと言われることに、何一つ、確信が持てるものがなかった。

  意識するということがどういうことなのかを、証明する術が未だ見つからない、未知である意識で行っている矛盾が、そうさせているのだと考える。

  私が。息子が。すべての出来事が。

  夢で見たことと、たった一つ違っているのは、肉体を通して、すべての感覚が連動している感触というものが、現実の方にはある。ということだけなのだった。