知性 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。


今年はキノコが大発生しているらしい。

林に入るとたくさんの種類のキノコを見ることができて、しかしどれが食べられるのかがちっともわからない私は、人間として退化しているのだと漠然と思う。

それでも、自然に触れていると、どうしてだろう。なぜだろう。
そういう気持ちが湧いてきて、そのことについて深く考えを巡らせる時間が好きだった。

ネットですぐに調べれば、答えはすぐに見つかる気がした。

師匠が、最近のアキアジ(秋鮭)は、前よりも岸にたくさんの密集しているのに、誰の竿にもかからなくなったのだと言った。

魚は不思議なんだよな。
たくさんいてもちっとも釣れないときもあれば、全然姿が見えないのに突然釣れるときもある。

海水温や潮の流れの関係もあるだろうけど、確実にこの時が釣れるっていうのは、長年やっていても、よくわからないんだ。

だから、面白いんだな。

と。


「わかる」のは、
「わかったようなつもり」なのかもしれません。

 くっきりした「答え」を追い求めていたら、
    人間は、劣化してしまいます。ー

リブログ内より

知性とは、知識の量の多さではないのだと思う。

自分の力で考えようとする意欲だ。

人は死を恐れるあまりに、不安な材料ばかりを集め、肝心の生きている実感や、人の尊厳を手放そうとしていると、最近よく思う。

熊が出るからとか、コロナだからとかで、様々な行事や自然体験を奪われている後輩の子供を山や釣りや師匠のぶどうのハウスに誘うと、彼らは服をベチャベチャに濡らし、魚を手づかみし、ぶどうをまるごと口に放り込み、種も皮も出さずに飲み込んだ。

この魚はなんていう名前?
この深い場所に魚がたくさんいるよ!
ぶどう嫌いだったけど、これ美味しい!

子供は押し付けられた知識なんて、欲しがってはいなかった。

すぐにわかる答えになど、なんの面白みも感じてはいない。

自分の五感を通して、不思議を感じることが大好きだ。

大人は経験から、傷つかない方法ばかりを選んでしまう。

ルールがルールを守るためにあるように勘違いし続けている。

ルールは本当はどんどん必要なくなっていくのが、人間としての成長であるのではないかと思う。

それなのに、何かあるたびに増えていくのは、人は自分の力で本当に大事なものは何かを考えられなくなっていっているからなのだと思う。

間違いを許さない社会は、人を虚無の世界へと落とし込んでいく。

けれども子供を見ていると、生きているってどういうことだったのかを思い出せるような気がした。