遮るものがない空の真下では、濃い緑の風景に隠れるどころかむしろ、その美しい独特なデザインで目立っていた。
死期が近い海に飲み込まれそうな狭い砂嘴に彼らは密集する。
ハンターに狙われることのない安住の地を求めて、自然に集まってきたのだろうか。
ただ生きている。
そう見える彼らは、生きていることの正しさを考え、あらゆる物事の道理を知りたいという、ともすれば自然の摂理から離れた私の欲望をいつもわけもなく打ち砕いた。
その鹿の子模様は、生き残るために、脳で考えて作り出された部分ではないだろう。
脳で考えることだけが、生きる術ではないのだと、彼らを見ているとただ思うのだった。
増え過ぎてしまった人間は、同じ種でありながら、互いに限られた物質を奪い合うように、争うようになった。
あのオタマジャクシのように、狭い環境に自分たちが溢れかえると、仲間の命を喰らう突然変種が生まれるようにプログラムされているように。
もしそうだったとしたら、そこに抗ったのは、脳を発達させて、心や感情というもので他者の気持ちを察する能力だったのかもしれない。
他人を自分の痛みに変換する能力が、人間を繁栄させたとしか思えなかった。
その能力が、人間だけではなく、他の動物たちの命をも慮る時、痛みは罪悪感になった。
それはこの世の現象とすれば、どの動物たちも同じであるはずなのに。
- 「敬い慎む心や、是非を判別する心は誰でも持っている。このあわれみの心は仁であり、恥ずかしいと思う心は義であり、敬い慎む心は礼であり、是非を判別する心は智であるのだ。仁義礼智の徳は、決して外からメッキされたものではなく、自分がもともと持っているものである。」『孟子(告子章句上)(智とは 儒教道徳(五常)解説よりお借りし、貼り付けしました。)
人は自然をわけることにより、様々な物を学び取ろうとしてきたんだな。
ありのままであるには、あまりにも心は孤独を感知し過ぎるからだ。
死を恐れるあまりに、死は憎むべきものになった。
時々、羨ましいんだ。
例えば、魚は痛みを感じないという。
でも痛みを感じない世界というものは、ひどく味気ない世界なんじゃないか。
昂る感情がもたらす実感を求めて、わざわざ痛みを探しているみたいだ。
子供たちは、時々、妄想の世界で遊ぶ。
おままごとや、戦いごっこや、お人形遊び。
人は生まれながらにして、自分の脳を使って遊ぶのが好きみたいだ。
脳の中には、自由がある。
脳の中で考えることは、自分以外の誰も邪魔ができないものだ。
それを失ったとき。
人は人であることを放棄してしまうのだと思う。
肉体を守りたいあまりに、脳の中の自由を失ってしまうのだとしたら。
それはとても怖いことだなあとただ思う。

