暑いから余計にイライラする!と彼女は言い捨てる。
自分のやりたくないことをどうにかやらないで済むようにと彼女をコントロールするおばさんに対して怒っているのだ。
おばさんは、自分がやりたくないことをやりたくないと正直には言わず、前の職場ではこうだったとか、あの人はこの間こんなミスをしていたなどと上司に告げるのだった。
めんどうごとには関わりたくない上司は、機転の利く彼女の方に我慢を強いる。
あの人をどうにかするのもあなたの仕事でしょ?と言われて。
いやいやいや。おばさんをどうにかするのは、彼女の仕事なんかじゃない。と私は思う。
それでも彼女が我慢をするのは、おばさんがみんなに嫌われると可哀想だという同情心があるからなのだった。
嫌いになる気持ちに善悪はつけられない。
しかし私が彼女なら、私は自分のことを自分に言わずに上司に告げ口したり、自分がやりたい仕事だけをしようと嫌なことを他人に押し付けようとするおばさんは間違いなく嫌いになる。
しかし、私は彼女じゃないから、おばさんを嫌いになれる材料はなかった。
しかもおばさんは、私にはそういうことをして来ない。仕事を一緒にしていないからでもあるけれど、私には自分のわがままが通じないと思っているのだろうとも思う。
彼女は嫌いなのではなく、おばさんを嫌いになりたくないのだろうか。
嫌いになってしまえば、もう二度と関わりたくなくなってしまうから。
そうすると、おばさんの仕事はなくなってしまう。
彼女はそうやって、時々、おばさんになるのだ。
だからこそ、文句を言いながらも、結局はおばさんにコントロールされているようにも思えた。
そこまでされたらさすがに嫌いになってもいい気がした。
けれどもおばさんを嫌いになることとおばさんを排除することは違う。
嫌いな気持ちに執着すると憎しみに変わる。
それは周りの感情を巻き込んで、物事を停滞させる。
彼女とおばさんの関係を私がどうにかすることはできない。
ただ私は彼女が好きで、おばさんのことは普通だった。
彼女が文句を言うからついついおばさんを嫌いになってしまいそうにもなるけど、ちょっと待てよ?とその度に立ち止まる。
彼女の感情には寄り添うけれど、その感情を自分のものにしないという感覚を大事にしたかった。
だからこそ、自分が今やるべきことや、やりたいことを心の中心に置くことが自分にとって必要なことなんだと思う。
イライラするよ!と言いに来る彼女は、私にとっては好ましかった。
私はそこで、ホントだな!と一緒に怒ってみたり、なんだよー!としょうがないなあと苦笑いしてみたりする。
その反応の違いは、彼女の状況というより、自分の今の状況に左右されてもいた。
イライラをストレートに、おばさんにぶつける前に私に吐き出すんだと、いたずらみたいな笑顔で彼女は言った。
あはは。それは得策だ。彼女はやっぱり賢いな。と、私は心で思う。
それは知識の豊富さではなく、自分の気持ちに向き合おうとする素直さだ。
その鏡として選ばれて、私は大変、光栄である。
あいひん@BABYLONBU5TER
「貪瞋癡の三毒」というが癡=無明=無知と貪瞋の根である妄執・渇愛はどちらが根本だろうか。「無知だから渇愛を持つ」とも言えるし「渇愛が人を無知にする」とも言えそうである。@kikuchi_8 さんのツイートまとめから引用↓… https://t.co/bmIW2K0nlW
2020年06月01日 19:55
↑何回も読んだ。勉強になりました。
ー「精神と物質」を巡る様々な主張も収拾がつかない形而上学的命題の一つである。
人の経験世界(知覚し認識する世界)の中で視覚や触覚の作用に「物質」という名称を与えた外部化し、それに対する認識主観の側を「精神」とした、という機制かもしれない。思う程「精神」と「物質」の境界は明確ではない。ー
リンク内より転載


