回線弱者なので、息子がプレステをやり始めると、動画を見れなくなる。
一時期、コロナの自粛のせいなのかわからないが、ひどくネットの速度が遅い時があって、ゲームができない息子は、机の中に眠っていたニンテンドーDSを引っ張り出してきて、久しぶりにオフラインのゲームに夢中になっていた。
息子が3歳になるかならないかの頃だった。
私は少しだけ行ったバイトの給料で、久しぶりに自分の欲しいものを買ったのだった。
それが、ニンテンドーDSとスーパーマリオ64だった。
私は家事と子育てをスーパーマリオ64をやるために日々、懸命に終わらせようとしていた。
自分の時間を作り出すために、早起きし、家事を終わらせ、子供たちを疲れさせ、早く寝せるために外で遊びまくっていたのだ。
今思えば、狂っていたと思う。
子育てに自分の時間の全てを取られていたことを取り戻すみたいに、思考をゲームに使っていた。
時々、子供たちがそれぞれ遊んでいる間にこっそりゲームをやっていたら、息子が興味津々で私の手元を覗きに来るようになった。
まだ字も読めず、会話もおぼつかない頃だ。
テレビゲームなんてもちろんやらせたことはなく、見ていてもやりたがるとは思っていなかった。
私の隣で静かに私が操作するDSを見続けていた彼が、自分もやりたいと言い出すことに時間はかからなかった。
しかし、できるわけがない。と鷹を括ってゲーム機を渡して、プレイさせてみると、何の説明もしないのに、まるで初めてではないかのような鮮やかなペン捌きで、マリオを縦横無尽に動かす。
私があれだけ苦労して習得した、壁キックもなんなくこなす。
あんた、天才だ!あなた、神童だ!
と、まだ若くて、あらゆる欲望にまっすぐだった私は、これが息子の才能だと思い、興奮を隠せなかったのである。
昔なら、練習などしなくても、ミスすることなくステージを進めることができたのに、今は、練習しても、一回で進むことができない。
息子にペンを叩くのが強すぎる!とか、身体を動かすな!おばさん!などと怒られる。
昔、自分のような年頃のおばさんが、上手く身体を動かせないのを見て、冗談だろ?と心で笑っていたことが現実になったのである。
頭で考えるから、身体でリズムを取らなければならなくなるのだろう。
リズムを感じる前に脳の中で譜面を作るようなイメージになっているのがわかる。
大脳皮質で起こる出来事がウザい。
こうなるから、こうだ。と説明的になっている思考回路が、無意識の小脳から行動の選択をさせる大脳に辿り着くまでに余計な回路を迂回させてしまうのだ。
あの3歳になる前の息子が、言葉を介さずとも視覚だけで私の手の動きを熟知していたことを思う。
こうなるから、こうなる。という余計な思考をとっぱらって、身体にダイレクトにその仕組みを染み込ませていた柔軟さ。
その危ういほどの素直さで、吸収し続けるスポンジのような脳。
知る。ということは、時々、脳みその可動域を狭めるなと思う。
私は何も知らないんだ。
それは謙虚さとかそんなことじゃなく、単に真実である。
だからこそ、考えるための場所があることを忘れることも必要だった。
感じる場所は、生きることに本当に何が必要なのかを知っている気がした。
脳には眠っている場所がある。
いや。
眠らされている場所があるのだ。
わかることよりも、わからない感覚を大事にすると、考えるよりも行動することで身につくものがいかに多いのかを知らされる。
それがゲーム機じゃないってことも、きっと息子は潜在的に知ってもいるのだと信じたいのだが。


