皮膚の記憶 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

  スーパーに買い物に行くついでに、息子がそういえばテラフォーマーズの23巻を買ってきてと言った。


  そういえば新刊がずっと出ていなかったから、出ているのだろうと安易な気持ちで本屋さんに寄る。

  本棚を丁寧に探すのだけど、なかなか見つからない。
  レジが空くのを待って、店員さんに聞こうと思ったのだけど、いや、待て。
  自分でしっかり探して、本当になかったら聞こう。ともう一度、棚にある漫画の背表紙を全て目で追った。

  スマホでググッてもなかなか情報が見つけられない。
  レジの前に誰もいなくなるのをもう一度待って、勇気を出してビニールの向こう側にいる店員さんに訊ねる。

  マスクで声がくぐもるので、何回も「テラフォーマーズの23巻ありますか!」と声に出すのが恥ずかしい。

  聡明そうなお兄さんは、レジ前で何やら調べてくれて、「23巻は出ていませんね。2018年の22巻から休載していて、違うシリーズで出てますね。」

 「え?!テラフォーマーズに違うシリーズが出てる?全然知りませんでした!」

  互いを隔てるビニールが邪魔だ。更にお兄さんは、無意識にマスクを外して、聞こえるように声を大きくした。

  テラフォーマーズ、テラフォーマーズ、言ってるおばさんの自分がなんだか恥ずかしい。
  
「あいにく新品は切らしていますけれども、よろしければ、中古があるかもしれませんので、探してきますね!」

  あ、そこまではいいかな…と言おうとする前にお兄さんの姿はもうない。

  ああ。もっと事前にしっかり調べて置けば良かった。と、忙しくなってきたレジの前で、後悔する。

  今や情報は、自分で調べなくてはいけない時代なのか。
  昔はもっと気軽に、例えば魚屋さんやお肉屋さんがあって、今日は何が安いのかしら?なんて、うちの親は店員さんに聞いていた。

  ついでに、他愛もない世間話なんかしはじめるものだから、子供である私は、早く帰りたいのになあ。と、尾頭付きの魚が並ぶ箱をじっと眺めていたっけ。

  調べられるのに、自分で調べなかった。
  店員のお兄さんの手を煩わせてしまった。
  手持ち無沙汰のまま、マスクで顔の半分を覆う人々の姿をぼんやりと眺める。

「すいません。中古でもありませんでした。」

  申し訳なさそうにしているお兄さんに恐縮しながら、そういえば。と、手にしていた自分の欲しい漫画を差し出して、今度は違う種類の羞恥に晒されることになるのだが。


卵子が受精して、細胞分裂が始まる
   その時、脳と皮膚は、
   同じ細胞から分化するという
   脳に記憶があるように
   皮膚にもあるのだろうかー

  ハンセン病という病に侵された男が、愛した女に殺される。
  不幸な生い立ちにあった男が初めて惚れた女が手に入らないから、自分の不幸に引きずりこもうとしていた。
  その後、病気になり、隔離病棟から抜け出して女に自分の病を伝染そうとする。
  自分は去勢され、子供も作れない。
  女は、どんなに自分の不幸に引きずりこもうとしても運良くその手を逃れた。殺すことが叶わないのなら、いっそのこと、殺してくれ。と懇願して。

  愛というものは、報われないと憎しみに変わった。
  好きという感情は危うい。 
  互いに同じ分量で、注ぎ合えているうちは幸せな気分でいられるのに、その気持ちをいつまでも留めておくことはできない。

  守ろうとする気持ちが、守りたいという気持ちが、時に不安を増幅させる。
  
  ハンセン病もそうだったのだろう。
  愛するものを守りたい気持ちが、過剰な不安を煽り、差別に向かったのだった。

  レジのお兄さんが一生懸命なあまりに、マスクを外して私の期待に答えようとしてくれたことが、ただ嬉しかった。

  あのビニールの壁を突き破って、私によく聞こえるように話してくれる。
  自分を守る気持ちを忘れてしまったようなあの瞬間を責めることなどできない。

  声から伝わる音も、皮膚から伝わる温度も遮断されている。
  私たちは、その生きてる感触を放棄してまで、何を守ろうとしているのだろう。

  脈々と続いてきた遺伝子の記憶の中には、乗り越えてきたはずの歴史を辿る術がない。

  偶然、生まれたのか。
  強かったわけでもなく、賢かったわけでもなく、ただ偶然、生き残った遺伝子だったのだろうか。

  帰って来てから、テラフォーマーズの新シリーズが出てるらしいぞ!それも7巻も!と、息子に言うと、それ、続編じゃなくて、スピンオフだろ。と告げられる。

  お兄さん。せっかく、調べて、探してくれたのに、ごめんな。 
  それじゃなかったってよ。

  命は不思議だ。
  命を育む社会はこんなにも正しさを求めて、右往左往しているというのに、その始まりは、その正しさとはずっと遠い場所にあるように思える。

  

エロスの種子から
    溢れ出す成分は
    時に人から
    冷静な判断力を奪うー