どうしてこんなに虚しいのだろう。
自分の心が自分の物じゃないみたいに、ふわふわと遠くなる感覚のときがあった。
自分の生きたいように生きられていないとか、自分が人に否定されているような気がするとか、未来を思うと不安だとか、自分の好きな人が自分を好きじゃなくなったとか。
心というものは様々な理由で、時には身体に支障をきたす程の病となるときがある。
息子が不意に言った。
こないだ授業で、どの教科が必要ないかって聞かれたんだけど、俺は道徳って答えたんだよね。
道徳ってさ?それぞれの国の文化や育ってきた環境で全然違うものなのに、それを教科にして、しかもそれに点数をつけるなんて、おかしいと思う。
一歩間違えば、教える先生によっては、自分の価値観に沿う者にいい評価をするかもしれないじゃん。
確かにその通りだと思う。
しかしこれだけたくさんの情報に触れられる時代に移行し、価値観が多様化していく中で、人として、社会に生きるものとしてのある一定の基準というものを改めて考えることは、確かに必要なのかもしれないと思うことがある。
けれども道徳や倫理というものは、人の上にあるものではないということを理解していなければ、道徳や倫理を説いて、人の尊厳を奪うような行為が正当化されてしまう危険性があるとも思う。
私は嫌いな教科はあるけれど、いらない教科というものはないと思う。と答えた。
そもそもその質問はなんのためなのかわからない。
どうせなら、あった方がいい教科は?と聞いていただきたかった。
その質問になら、私はこう答える。
哲学という教科だ。
哲学とはざっくり言うと、物事の本質を捉える営みだ。(はじめての哲学的思考より。これは分かりやすい!)
人が社会を形成してから、所有の概念を持つようになった都合上、人は物質的な損得のために争うことが世の常になったようにも思える。それは財産だけではなく、人の心も同じだ。
だからこそ、そもそも人はなぜ生きているのか?なぜ人は人であるのか?と考えることは、物質的な豊かさが人の価値であると認識しがちな世の中では必要な思考方法なのではないかと思える。
洗濯は洗濯機がやってくれて、米を炊くのは電気がやってくれる。
それなのになぜ人はこんなにも働かなくては、ご飯を食べることができないのだろう。
かと思えば、全然働いていないと思える人でも、普通にご飯が食べられる人がいるのは何故だろう。
自分がなんだか損をしているような気分になるのはなんでだろう。
どうして自分は自分の好きなことをしているだけなのに、批判を浴びなければならないのだろう。
誰が悪いのだろう。
いや。悪い人を特定したとして、その人を排除することに、長い目で見た時に何か人にとって都合のいいことになるのだろうか?
そもそも、悪いっていうのは何だ?
大勢が悪いと決めたことが悪いになるのか?
だけど、その決めつけた"悪い"のせいで起きた悲劇は歴史上にたくさんあるじゃないか。
こんなふうに物事を遡って考える癖をつけることは、無駄な争いを避けるようになるだけでなく、自分の尊厳を守ることにもなるのではないだろうか。
もちろん哲学の教科に評価は必要がない。
本質を捉えようとする思考の癖をつけることが、目的であるからだ。
だけど、君たちの天敵であるオオカミを殺したのは私の祖先だ。
そのオオカミに成り代わって、人は銃を構えるけれど、今度はその銃のせいでワシたちがいなくなる。
ずっと幸せに、飢えることなく生きていたいのは、生きているものみんなの願い。
さて。どうしたものか。
