銀の龍 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。





  中島みゆきさんの良さが全然わからなかった。
  震える声は幽霊みたいで怖いし、メロディーはなんだか古臭いし、歌詞は壮大過ぎて心にピンと来ない。

  しかし最近になって聴いてみると、涙が出てくるぐらい心に響いてくる。

  そういえば、朝ドラの主題歌であった麦の唄を息子がいたく気に入っていて、オープニングだけ何度も見させられるはめになっていたときのことを思い出した。

  私はまったく心に響いていなくて、なぜこんなにも幼い子供が、歌詞の意味をわかっているわけでもないのにこんなにも夢中になるのかと不思議だった。

  ふと息子にそのことを尋ねてみると、俺もなんであの頃あんなにこの曲が好きだったのか、よくわかんないけど、中島みゆきは本物だとなんでか思った。と答えた。

  冬休みになって部活も長い休暇に入り、息子は運動不足をそのへんの雪が積もった公園を走り回ることで解消していた。

  けれども自主的に行う運動は、自分に甘くなってしまうから、思うように筋肉が維持できないんだと嘆いている。

  「そう考えるとさ?俺が小学生のときに行ってた川の探検てすごかったよ。
    川をただ歩くって、すごく筋肉使うんだ。
    魚を捕まえようと走り回ったり、転ばないように足の裏で石をつかまえたりするだろ?
   でもさ、楽しくてしょうがないから、疲れなんて感じなかった。
  遊んでるうちに自然に身体は鍛えられてたんだよなあ。」

  息子は自然が大好きだ。
  小学生の頃は、ゲームをするよりも、ワシをカメラで撮ったり、近所の川に鮭が遡上するのを見に行って、熊と目が合って一目散に逃げ帰ってきたりしていた。

  飛んでいる鳥の種類を熱心に調べたり、海外の野生動物を撮る写真家の写真集を欲しがったりしていた。

  今はゲームの方に夢中になってしまっているが、空にいる鳥や川にいる魚を見ることは、まるで習性かのように残ってもいる。

  きっと幼い息子は無意識に自然の中から物語を読み取っていたのかもしれないと今は思うのだ。

  言葉を語らない自然の中で、冷たい水や風から自分の体温を知り、飛ぶ鳥や泳ぐ魚たちの生育環境から、生命の儚さを感じていたのではないか。

  自然の中にある物語を中島みゆきさんの歌詞の中から感じ取っていたと思うのは、私の考え過ぎかもしれない。

  しかし、先入観というものがまだ薄いような幼い子供にとって、自然から受け取っていた様々な現象というものは、人間が想像してきた物語から創造してきたもので奢り昂った事柄に関して、無意識に反発心を感じさせるものだったのではないだろうかと思うことがある。

 ヒトの遺伝子の記憶は、文明が起きる以前の方が色濃いのだと本で読んだ。農耕社会よりも狩猟採集社会の方が長かったから、身体の機能は飢えには強くても、物質的な豊かさの享受には慣れていないのだと思う。
  厳しい環境に耐え抜くための力は、その行き場をなくして心に影を落とす。

  新しく出来た所有の概念によって、人と人が争わずに安定的に作物を育てるためにヒトには神様が必要だった。

  分け合うこと、痛みを分かち合うことで、繁栄したいと願った。
  自分の命を長らえるために奪ってきた自然に対して、とても謙虚だった。

  しかしその神様は今やすっかり目的を違えて、人が人の上に君臨するためのツールに成り下がっている。

  幼い魂は、反発する。
 自分を拘束する時間やルールが、自分を生産的な社会を形成する一部分として扱うことに対して。

  それは、まだ遺伝子の記憶に忠実な子供にとって、ごく自然な行動のように思えた。