いろんな背景 | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。

  娘が今日、間違えて息子がトイレで大の方をしている時にドアを開けてしまったと言った。

  それは鍵をしていない方が悪い。と私が言うと、息子は、足元から光が漏れていたり、もしくは人の気配で、普通は人が入っているかどうかわかるはずだ。と言い返してきた。

  私はふと不安になった。
  家ではいちいちトイレのドアをノックするやつはいない。
  万が一、鍵を閉め忘れて開けられたとしても、家族には見られても平気だからだ。

  しかし、洋式の公衆トイレでは、常にドアが閉まっているから、鍵を閉め忘れる人もいるかもしれない。私は一応、ノックをするのだが、そういえば娘には、それを言葉にして教えていなかったかもしれない。と。

  娘に恐る恐るそのことを聞いてみると、そのときはノックするよ!と返ってきたから、ひとまず安心した。

  娘は友達によく怒られるのだと前に言った。普通とされる人と、他人との身体的な距離の取り方が違うので、声をかける前に傍に寄りすぎて、びっくりする!と言われるのだという。

  私は息子に、お姉ちゃんはそういう性質なのだ。普段は意識が内にこもりがちになるから、他人の気配とか、自分が落ち着く場所では感じにくいのだ。と。

  そう言うと娘は少し、落ち込んでしまった。
  しかし、本当のことだから、仕方がないのである。
  娘は、他人がいるときは意識的に人との(普通とされる)接し方のマニュアルを取り出さなければならない。だから、一人になったときにどっと疲れることを自分でも理解しているはずなのだ。
  
  今さら、落ち込むな。人にはそれぞれ得手不得手がある。人の気持ちをいちいち知ろうとしなくても、わかってしまう人だって辛いんだ。
  それを感じにくいことで、できたことだってたくさんあるはずなんだよ。

と、私が言っても、娘は、
「いいよ。私は常に死にたいんだから。」
と言う。

  私はそう言われるたびに腹が立つ。
  どうにもならない自分の一部分をいい加減、受け入れろよ。と思う。
  それでも娘の生きづらさは、娘にしか分からなくて、私は自分がどうにもしてあげられないことに自分で自分に腹を立てているのだった。

  娘はいろんな辛さを抱えている人が書いた本を読みまくっていた。
  娘なりにいろんな生きづらさを抱えた人達が、どんなふうに希望を持って、生きているのかを知りたかったのだ。

  暗くて、残酷な物語を読んだり、見たりするのも好きだった。
  それは決して、希望ばかりが詰め込まれた物語では救われない自分の痛みを慰めてくれるものであったのだろう。

  いろんな人に出会えよ。
  いろんな文章を読めよ。と思う。

  私の力でだけではどうにもできないことが沢山あって、それを知らされるたびに落ち込むことも多いけれど、世の中には自分には想像もつかないいろんな価値観を持って生きている人が大勢いるのだ。

  SNSの世界でも、娘はいろんな人に出会ったようだ。リアルでは話せないことを話せる人もできて、寂しくなったらTwitterでメッセージを送ったり、spoonで配信をしたり、Skypeで話したりするのだという。

  そうしているうちに出会い厨(異性と出会いを目的に距離を縮めようとする人のことを言うらしい)を見分けられるようになった!と、自慢していた。

  顔も素性も知らない人と話したりするのはどうかと思うこともあるが、娘も息子もデジタルネイティブ真っ只中の世代であるので、私よりもずっとSNSのマナーやルールに詳しいのである。

  そして、リアルとネットの世界の人付き合いの距離の取り方をそれなりに分けてもいるように見えた。

  人は、悪い人と良い人がいるわけじゃなくて、悪い状態の人と、良い状態の人がいるのだと思う。

  心の底では人を信じきって、だけど人それぞれの今の心の状態を見極められることが大事なのだと思う。

  自分や今ある現状のことを知り、受け入れられている人もいれば、自分のことを知っているけれど、受け入れられない人だっている。
  その葛藤の中で人は、自分を守るために怒りをぶつける人もいるし、逆に被害者になって同情を買い、加害者を仕立てあげて、周囲の感情を煽る人もいる。
  ただ悲しみの感情を吐き出したいだけの人だっている。

  そしてそんな、それぞれの人の状態を知るためには、やっぱり、たくさんの人と出会い、関わる経験を重ねなくてはならない。

  失敗もするだろう。傷つくこともあるだろう。
自分の何かを奪われることだってあるかもしれない。

  それでも人は、自分一人の世界に引きこもっているわけにはいかないのだ。

  私は、自分のことを知る努力を重ね、自分はこういう人間だとアピールをする。そこに善悪を付けず、全てを受け入れてくれる人のことを友と呼びたい。

  自分はどうだろう。
  友人たちの悪い時もいい時も、変わらず信じることが出来るだろうか。

  拒絶したくなったときは、自分にこう言いきかせていた。
  私はまだまだ理解が足りていない。
  人を知ろうとしていない。
  人に垣間見えるその拒絶したい部分にこそ、本当の私の姿があるのだ。

  それを見つけたときに私はどうする?
  他人の思考も感情も、自分の力では変えられない。

  人を信じ切る。と決めた上で、自分ができることとできないことをしっかり伝えることができるだろうか。

  あなたが嫌いなんじゃない。
  私はひどく未熟で、あなたのその部分を受け入れることがまだできない。

  あなたを、人を、嫌いになりたくないんだ。
  どうしたらいい?
  一緒に考えてくれませんか。

  トイレのドアをノックせずに開けてしまう人がいる。

  その人は、常識を知る環境にいなかったのかもしれないし、自分がドアを開けられても何とも思わない人かもしれないし、ノックする時間も惜しいほどに我慢できない状態であるのかもしれない。

  人のひとつの言動と行動には、様々な理由や背景が隠れていることを想像できる人になりたかった。