風邪をひいたわけでもなく、その前の二日間ぐらいはろくに練習もしていなかったから、身体的な疲労は感じていなかったはずなのに。である。
しかし部内のゴタゴタは彼の精神を蝕んでいたのだろう。
人というものは、身体的な疲労に対しては、睡眠の質を上げるのだけれど、精神的な疲労は睡眠の質を下げるものなのではないかと思った。
感情を思考で整理しようとすることで、深く眠ることができないのではないだろうか。
この間、久しぶりにブレードボードで遊んだ時に、脳が(思考が、言語が)どれだけ役に立たないのかを思い知った気がする。
まず左足をのせて、それから右足を添えて…などと順序立てて頭で考えていると絶対に前に進めなかった。
もういいや。とにかくこの板を前に進めてみるか!
そう脳の中で思考を巡らせることを諦めたときに、脳以外の身体能力が目覚めた。
脳で、言語で、考えるスピードよりも、板の上でバランスを取ろうとする身体の軸の命令の方がずっと早かったのだ。
すぐに重力に従順になる不安定な身体が、みぞおちを意識するだけで自然にバランスを取ろうとする。
しかし整っていくバランスに従って上がっていくスピードに一度脳が恐怖を覚えてしまうと、すべての身体の部品がすぐにバラバラに動くのがわかった。
怖い!転ぶかもしれない!
自分の軸を疑った瞬間に身体は、地球とのバランスを崩したのだ。
自然の中で、植物や動物たちを観察していると、秩序めいた法則に出くわす。
それは、言語を信頼している人間には推し量れないものであるような気がするのだ。
五感から思い出せる記憶というものは、目から得た情報に繋がってしまう。
人は五感の中で、目から得た情報がいつのまにか優位になっているのではないか。
耳から届く言葉もある意味、脳の中で文字の意味に変換される。
舌も皮膚も鼻も同じだろう。
すべての感覚から得た情報は、全て言語化されて脳の中に落ちる。
五感から得た感覚は全て視覚に集約されてしまうのではないか。
風を切って進むあのブレードボードは、あの瞬間、自分の身体の一部だった。
風も重力でさえも。
私は脳に閉じこめられていたんだ。
言語の情報で肥大した脳こそが、自分というものを閉じ込めていたんだ。
そう考えるとメンタルの強さというものは、もしかしたら考え方ではどうにもならないのかもしれない。
身体の機能のすべてを信頼すること。
それは自然から切り離された命をもう一度繋げる過程なのかもしれない。
時の記念日の説明の中にこんな文章があった。
「時間をきちんと守り、欧米並みに生活の改善・合理化を図ろう」
私たちは時間を利用しているのではなく、時間に利用されている。
欧米並みの生活の改善と合理化。という言葉に違和感を感じるのだ。
命を長らえたい欲望が奪ってきたもののことを考えた。
人の幸せは、生きる長さか?
いや、その濃度であるだろうときっと言葉では誰もが答える。
しかし私は正直、死ぬことが怖い。
身体的な痛みや苦しみもちろんだが、死が自分の意識の消滅であると考えると気が狂いそうになるのだ。
しかし意識(脳、言語)の消失を恐れるあまりに人は本当に大事なものを見失って、かつ搾取されてきたのだろうか。
息子のスケボーで遊びながら、感じることにしよう。
そのとき、自分のすべての機能が自然と繋がる。
それは瞬間の中に終わりのない命を意識している感覚であった。
身体を動かして、高鳴る鼓動。
進みたい場所へ、身体の全てを使って進む。
今を、生きている。
