少し萎れたほうれん草の根元に、50度のお湯をかけると不思議なことが起こった。
弱々しく下を向いている葉っぱが、重力に逆らうようにして、ググっと反り返るのだ。
手の甲にかかるお湯の熱さを我慢して、今日使う全ての葉物の野菜たちに同じようにしてお湯をかけ続けた。
土という命の土台から離れたにも関わらずそれは、掌の中でもう一度、息を吹き返したように思えて、君たちの生と死の区切りは一体、どこにあるんだろうと考えはじめてしまうともう、その日の夕食は切って盛るだけのワイルドな食卓になる。
昨日は全部が緑だった。
ワンプレートにレタス、きゅうり、鶏胸肉のバジルソース、パスタ添え、お味噌汁はほうれん草。
おいおい。全部、緑だな。
しかも、アスリートの食事かよ!
と、息子は言ったけど、内心喜んでいることも知ってる。
リビングには大音量で、King Gnuが流れる。
私と息子の最近の流行だ。
聴けば聴くほど、クセになるよね。
歌詞も曲もPVも最高だ。
愛だの、夢だの、希望だの、言わないところがよろしい。
ボーカルはこんなに声がかっこいいのに、普段はおどけているところも良い。
なんだろうな。
愛とか希望とか夢とか言われると、鬱陶しいんだよな。
それは、現実的じゃないからなのかな。
物事を両面から見ようとしない人の言葉は信用に値しない。そう思うからじゃないのか。
人はみんな、表裏があるのに、そんな陳腐な言葉で元気になるやつの気が知れない。
陳腐!!
そうだ!それ!
ありふれていて、つまらない。
だって、愛とか夢とか、希望とか、どんなに胸に抱いていたとしても、みんながみんな救われるわけじゃない。
どうしてだろう。
書いても書いても書いても書いても、ちっとも満たされない、むしろ、書けば書くほど、空虚な心の在処を確認するばかりだった。
リストカットを繰り返す人みたいに、わざわざ痛みを感じるために流れ出た血を文字の中に見つける。
傷つけないように、傷つかないように、遠ざけている人との距離を、埋めるみたいに溢れ出す文字。言葉。
きっと音楽を作る人も同じなのだろうか。
内側にあるザワザワとした何かを吐き出すようにして、音を並べる。
依存。
ダメなこと。ダメになっていく自分。
だけどそれだって、愛と呼べるんじゃないか。
続けることでもたらした結果が、自分にとって苦しみになるとそれは執着になり、幸せになると愛着になる。
取り憑かれるように、欲するもの。
失うと途端に、崩れ落ちそうになるもの。
自分にはそれがないと、生きる意味がなくなってしまうような錯覚。
口の中で、いくつもの命の欠片を咀嚼して、お腹の中で選別している。
必要なもの。必要ではないもの。
必要ではないものの存在に、痛みを感じる地獄みたいな感性のことを芸術と呼ぶ。
いいとか、悪いとか、そんなんじゃなくて、どうしようもない心の形が言葉や絵や写真や音楽の中に投影されて、今ある感情を肯定してくれるようなもの。
命を吹き返したと思われた野菜たちは、細胞の隙間にある空気が熱で膨張することで、一瞬だけ生きているように見えただけだった。
根っこを奪われて、生きていられるわけがない。
いろんな死が自分を作ってきたんだな。
死体だらけでできている、鬱陶しくも、愛おしい、この命。
