人生短いんだから、
好きなことを追いかけて生きていきたい!
と思う時もあれば、
好きなことなんて、別になくていい。
好きなことなんて、何もない。
と思う時もある。
私はわがままだ。
自分がこうしたい!ということの当てが外れると、なかなかこうしたい!の前の思考の状態に軌道修正ができない。
できなかった理由や原因を探すことに思考を使いっぱなしになり、さらにはそこに感情を入れてしまう。
自分の思う通りにならないことが、悲しい。苦しい。寂しい。と思う。
自分の力でどうにかしたい。
できなかったことをそのままにしておきたくない。
その気分を払拭するために自分磨きをしようとか、勉強をしようとかも思う。
しかし、その気がかりに思考も感情を奪われているのだから、他のことになんて気が向くわけがなかった。
向かない思考と気分でよろよろとなんとか義務を片付けて、また、その答えの出ない自分の思い通りにならなかったことへの問題解決に取り組む。
自分の力だけで、解決できる問題というものは本当に少ない。
たいていはどうにもならないことの方が多い。
そこに囚われているときは、心が身体を留守にしているような気がして落ち着かない。
家主のいない家のドアを叩くと家政婦さんが出てきました。
「すいません。ご主人様はあいにく留守にしていますので、本日はわたくしがご要件を伺います。」
世間と会話をしてくれるのは、私自身ではなく、社会という世界で教育された家政婦さんです。
叩き込まれたマニュアルを数多くの経験から今に相応しい言葉を正確に選び出すロボットです。
本当のご主人様は、フィットハイブリッドに乗り込み、Canon70Dと中望遠レンズと共にいつもの海と湾に挟まれた細長い道へ出かけっぱなしなのです。
地平線と水平線がよく見えるあの青の割合が多い場所。
ここは宇宙なのかもしれない。
地球の自然の色とはかけ離れた青の中に凝縮された生命体の数々。
ちっぽけな命の光景が宇宙という不可解な世界の片隅にただある。
私が何かしても、何もしなくても、きっと何も変わらない。
でも、何かしないことで、変えられる何かもあるのかもしれない。
色がある。
音がある。
形がある。
見て、感じて、触れて、味わって、聴こえるというこの感覚こそが生きている実感だった。
理由なんて本当はない。
原因なんて探さなくてもいい。
何もしないことをしに、わざわざ出かけた私が、その何もしないことから得られたことは今までも実に多かった。
囚われた思考から、感じられる感覚を取り戻したときにわがままな私はやっと謙虚になる。
風や雲や空。
海や霧や雪。
命はいつも意識のない現象の奴隷だ。
寒いか、暑いか。
固いか、柔らかいか。
悲しいか、楽しいか。
感覚と感情が同じ価値で交じりあった瞬間に私はやっと好きなことを追いかけなければならないという呪縛から逃れられる。
ああ、自然よ。宇宙よ。細胞よ。
どうぞ私をあなたのお好きなように。