砂の器 | 想像と創造の毎日

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自分で撮影しております。

息子を迎えに行ったときに同乗者である幼なじみのKくんが、外でスマホを持ってウロウロしていたから、何してんだろ。と聞くと、「ポケモンじゃね?」と息子は呆れるように呟いた。

私はKくんが嫌いではない。親友の子供だからもあるけれど、息子とは反対の性格をしている。
空気が読めなくて、感情的だけど、彼は人への差別心というものがない。というより、元々差別ということがどういうことかをわかっていないような気がする。

Kくんはゲームが大好きだ。寝食を忘れるほどに夢中になるため、親友はそのことでよく愚痴をこぼす。そのゲームの繋がりで彼が遊ぶ友人たちは年下も性別も関係ない。

息子はゲームは好きだが、寝食を忘れるほどに夢中にはならない。しかし、遊ぶ友人は趣味の繋がりというよりも、それぞれの性格が自分に合うかどうかを重視しているように見えた。

Kくんは息子と同じ部活だ。ゲームを通じて仲が良い発達障害を持つ後輩の子がとてもKくんのことが大好きで、運動が苦手なことにも関わらず、一緒の部活に入りたいと言っていた。息子はその後輩にはこの部活は合わないと言ったが、Kくんはやれるところまでやればいいんだと入部を進めたそうだ。
マネージャーになりたい後輩の女の子も、周りはもう人数が充分に足りているからいらない。と言うところを入りなよって背中を押したのは、Kくんだった。

「ポケモンの何がおもしろいかわかんねー。」
と息子は言った。
「そうは言ってもおまえ。前に白猫プロジェクトだかもくだらねーって言ってたくせにハマったじゃないか。」
と言うと
「ポケモンはガキくせーんだよ。」
とわけのわからない返事が返ってきた。

息子はKくんの文句のようなものを私の前ではよく言う。
音痴なくせに堂々と歌う。とか、すぐに調子が悪いとか言って部活を休む。とか。
音痴だって歌っていいじゃないか。
具合悪かったら休むのあたりまえだろ。と言い返すと不機嫌になるので、そうなんだ。と話を切る。

「オレ、最近、バレー上手くなってきたわ。」
息子は運動神経も悪くないし、体力もあるのだけれど、少々不器用だ。球技はボールのコントロールが難しいらしく、あまり好きではなかった。しかし、友人たちと休みの日にバレーボールで遊んでいるうちに上達したのだろう。

「休みの日のバレーにKくんもいるんでしょ?」
と尋ねると息子は「いる。」と不機嫌そうに頷いた。
「だけどアイツ、いつも空気悪くするんだよ。
   自分の失敗も他人の失敗にもすぐ不機嫌になって、遊びなのに勝ち負けにこだわる。
   みんな、空気悪くね?ってこっそりオレに言うから、ああいうやつだから、ほっとけ。て言うんだよ。」
Kくんは同級生たちに嫌われているわけではないけれど、どうやらあまり好かれてもいないようだった。
私は息子がKくんの文句を言うたびになんだか心が痛むような腹が立つような複雑な気持ちになってくる。

「おまえ。仲間外れにしたりとか、無視したりとかしてねーべな。」
と時々言ってしまうのだが、息子は
「するわけねーだろ。オレはムカついてても、周りのヤツらが良い奴なんだよ。オレだって嫌いじゃないんだよ。ただムカつくだけだ。」

ずっと小さい頃から一緒だから、いいところも悪いところもわかっているのだろう。ただわかりすぎて、近過ぎて、嫌になるのかもしれない。

Kくんは空気が読めないというよりも、自分がいつも目の前の好きなことに夢中になってしまうから、周りの人の感情に目が届かないのだと思う。
自分の思うようにいかないと感情を顕にしてしまう。でもだからこそ他人の感情にそれほど敏感に反応することはなかった。

息子は勝ち負けよりも、周りとの調和を大事にしている。だから、Kくんがそれを乱すことに悪気がなかったとしても、腹が立つのだろう。
しかしKくんは空気を読まないからこそ、周りの考え方になんて囚われずに純粋に人に接することもできた。

女の子でも、発達障害でも、誰でも部活に入りたい子たちを受け入れようとした。息子は、顧問や先輩、そして自分に降りかかる責任を考えて、選別しようとしていた。

私は息子の器が小さいことにいつもイラついているのだ。
そして、息子自身もそのことをわかっていて、もがいてもいる。

けれど、「バカだけどすっげーいいヤツら!」って息子が表現する高校で出会った友人たちのおかげで、クラスは大きな争いごともなく、仲がいい。息子の学年は近年稀に見る仲の良さだと担任は言っていた。

完璧な人間なんて、どこにもいない。
完璧な人間がいないから、みんなでそこをそれぞれ補うようにして仲間になるんだ。

器の大きさと賢さは比例しないし、どっちがすごくて、どっちが劣っているというわけでもない。

私とKくんの母親である私の40年来の親友も同じだったのだ。

思春期の私は、彼女の空気の読めなさに内心イライラしては、でもしょうがねえなとどこか上から目線で接していた。

なんだ。息子の器の小ささは、私じゃないか!
だから、ムカつくんだ。
だから、拒絶したくなるんだ。
差別したくないのに差別を感じてしまう自分を持て余しては、自分のせいじゃないんだとどこかに怒りを転嫁する。

触れればすぐに崩れ落ちるような砂でできた器を嘆いて、だけどそんな私たちの情けなさを黙って受け入れて、心が整うことを待ってくれる大事な人たちのことを思う。

一人では何もできない。
一人では寂しい。
一人じゃないことを分かっているから、
一人を楽しむこともできた。

みんなの中に一人がいて、一人の中にみんながいる。

どんな人でもここにいていいんだって、言える人になりたかった。