毎日、ここから離れられない。
もはや、自分が何を書いているのかすらわからなくなるときがある。
読んでいる人のことなんて、書いているときは忘却の彼方で、書き終わったあとになんだか後悔することだってある。
だって、何かを好きだと書けば、そこに当てはまらない人のことを好きじゃないと言っていることと同じになるのだ。
そんなとき自分には配慮とか、気づかいとかに著しく欠けているなあと自分を責めてしまう。
それは会話しているときも同じで、私が感情のままに楽しかったことをさも無邪気に話すと時々目の前の人の目がどんどん曇って行くのが見えて、私はその人の状態を前後の言葉の中から、感じとることができなかったのだと思うのだ。
あなたは忘れっぽい。
そう言われたときに私は少しだけ傷付いた。
確かに私はいろんなことを毎日忘れていく。
人の名前も顔も誰かの言ったことも、そこにひとつだけ自分の拘りに引っかかる事柄に出会ってしまったら、その先の会話は右から左に流れるように通り過ぎるだけで、相手が気持ち良さそうに話す態度だけを感じながら、聞いているようなふりをする演技で自分の表情と脳みその中身がバラバラになっている感覚に陥る。
娘が言った。
私は興味のない話を聞いていられないから、友達を作れないのかもしれない。と。
そうだな。おまえはわがままなんだ。
人が何を考えて、何を感じているのかよりも、自分の中身に興味があるのかもしれない。
そう言いながらまるでそれは、自分に言っているような気がしていた。
人の噂話のようなものなんて、特にそうかもしれない。
でも、誰かが誰かの悪口を言っていることには聞き耳を立てたりもしている。
それは、なぜその悪口を言っている人が、そう感じてしまうのかに興味が湧くからだ。
人の気持ちに興味があるというよりも、人の気持ちの構造に興味がある。
誰もが自分を愛しているが故に他人のことが気になるのだと結論づけて、言われている人の気持ちになど反応しない癖をつけてきたのかもしれない。
あの幼いときに歩道のアスファルトいっぱいに書かれた自分の悪口を読んだときの衝撃を誰かに重ねてまた同じ傷の痛みを感じてしまうことが怖かった。
職場で誰かが誰かの本人には言えない悪口のようなものを聞きながら、必死に自分に重ねないようにその人の発した言葉の裏にある自己肯定の正体を探している。
自分の正しさを熱弁しながら、私に同意を求めようとする魂胆はわからないわけではない。
誰もが自分を守りたい。
そして自分が得をしたいのだ。
人は自分が骨を折った努力に結果がついてこないと自分がここにいる意味を途端になくしてしまう弱い生き物なのだ。
昨日、撮影に行ったときに空っぽのように見えた巣がいくつも目に入った。
親鳥が生み出した命を必死に守り、育てたあとがなんだか寂しげに取り残されている。
ぴーちゃんはゲージの上で、虚ろな目をして、必死に腰を振っている。
ぴよぴよとひよこのような鳴き声で、私がじっとその様子を観察していることさえ無視して、まるで何かを全うするかのように湧き上がる遺伝子の命令に忠実になるのだ。
そこにあるのは愛ではなく本能だ。
ただ自分が繋がれてきた命のサイクルの中に自分も参加しているだけだった。
誰かが言ったんだ。
愛は発明だと。
その言葉だけがやけに腑に落ちて、それを言ったのは誰だったのか、本だったのか、曖昧になっている。
記憶は自分の都合のいいように書き換えられる。
自分というものは、細胞だ。遺伝子だ。
心は遺伝子に逆らったときに愛になるのだと思った。
美しさの裏側に残酷を隠して。
