野次馬 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。

娘はコミュニケーションが苦手だが、それは他者の気持ちを想像するのが苦手な性質から来ている。つまり、他者の気持ちを自分に置き換えて想像するのが苦手なのだ。これは、元々持っている彼女の特性であるので、治すことはできないのだと小学生の時に検査をした時に言われた。しかし言語理解は優れていたため、彼女が人とのコミュニケーションにおいて困っているときは、私の経験と想像の範囲で言語化して理由を教えるようにしてきた。例えば娘が人に嫌なことをしていないのに悪口のようなことを言われたときにその人の心の中はどのような気持ちなのか。人は何かを話すときに必ず真実ばかりを口にしているわけではないこと。また何も言わないからと言って、何も考えていないわけではないこと、など。それから娘は様々な本を読むようになった。幼い彼女はフィクションよりもノンフィクションを好んだ。想像することが苦手な彼女は、実際に起きていない物語で感情を揺らして遊ぶよりも、現実世界の人の心の普遍性を知ることの方が大事だったのだろう。

思えば幼い頃の娘は人の噂話にまったく興味がなかった。なので野次馬のような行為をすることがあまりなかったのだ。それは彼女の思考が外側よりも自分の内面に向いていた証だったのだと今は思う。

人の不幸や争いごとを覗きたいという気持ちは人が抗えない好奇心であると同時に自分が経験出来ない他人の思考を想像し、自分に置き換えるという擬似体験なのかもしれないと思ったりもする。
自分の関係ないところに割って入りたくなるのは、自分がそれを解決できる実力があるのだと周囲に知らしめたい承認欲求かもしれない。または関わらないけれど覗いてしまうのは、現実に自分の目の前にそのようなことが起きたときにどのように解決するのかを考えるための材料にしているのかもしれない。

それでも大きくなると共に娘は少しずつ、人の揉め事を覗くという野次馬行為をするようになった。自分の思考の外側にある自分とは違う思考回路を持った人の様々な行為に反応し、それに対して私に意見を求めてくるようになった。

人の言動や行為に対して、少しずつ興味を持ってきた過程は彼女にとって、自分の世界と他人の世界とを分けて行くことそのものだったんだなあと今は思う。

私は野次馬だ。
他人の行為を眺めながら、自分の中で原因を想像しては勝手にジャッジをする。

しかしそれはあくまでも自分だけの仕分け作業なのだった。

当事者であるかないかの区別があって、私はそこで自分と他人の世界を二分する。

心の反応のスピードは早くても、行動に変えるまでのスピードは早くなくてもいいのだと私が気付いたのはごく最近なのだけど。