思えば幼い頃の娘は人の噂話にまったく興味がなかった。なので野次馬のような行為をすることがあまりなかったのだ。それは彼女の思考が外側よりも自分の内面に向いていた証だったのだと今は思う。
人の不幸や争いごとを覗きたいという気持ちは人が抗えない好奇心であると同時に自分が経験出来ない他人の思考を想像し、自分に置き換えるという擬似体験なのかもしれないと思ったりもする。
自分の関係ないところに割って入りたくなるのは、自分がそれを解決できる実力があるのだと周囲に知らしめたい承認欲求かもしれない。または関わらないけれど覗いてしまうのは、現実に自分の目の前にそのようなことが起きたときにどのように解決するのかを考えるための材料にしているのかもしれない。
それでも大きくなると共に娘は少しずつ、人の揉め事を覗くという野次馬行為をするようになった。自分の思考の外側にある自分とは違う思考回路を持った人の様々な行為に反応し、それに対して私に意見を求めてくるようになった。
人の言動や行為に対して、少しずつ興味を持ってきた過程は彼女にとって、自分の世界と他人の世界とを分けて行くことそのものだったんだなあと今は思う。
私は野次馬だ。
他人の行為を眺めながら、自分の中で原因を想像しては勝手にジャッジをする。
しかしそれはあくまでも自分だけの仕分け作業なのだった。
当事者であるかないかの区別があって、私はそこで自分と他人の世界を二分する。
心の反応のスピードは早くても、行動に変えるまでのスピードは早くなくてもいいのだと私が気付いたのはごく最近なのだけど。