しなくちゃいけないのかしら。」
今年入社したばかりの正社員の女の子に雑用を言いつけられたのが、おもしろくなかったのだろう。彼女は50代の臨時職員だ。
「締め切り近くなってから、
私に仕事を押し付けてくるなんて
おかしくない?
私、休日出勤してる上に週休すら
貰えてないんだけど!」
仕事に対する責任感は人一倍あるのだけれど、言い方にいつもトゲがある後輩の彼女は、私の一人きりの職場へ毎日愚痴を吐きに来る常連さんだ。
前者は、その若い女の子が、年齢の差が引き起こす気遣いというものを省いて効率を優先させたから仕方ないことだし、後者については、自分ができないところは人にどう思われようができないと断ればいいのだと言いたかった。
しかし彼女たちは頭の中では自分が不満に思う理由をそれぞれ本当は理解しているはずだとも思うのだ。
私の方が年上なのだから、顎で使うように雑用ばかり押し付けるのは不愉快だ。とか、
私の今の実力では、命じられた仕事を時間内に終わらせることは不可能です。とか。
はっきりと自分が不快になった理由を告げることが、どのようにお互いが気持ちよく仕事をできるかを探るための材料だと捉えられる人が残念ながら、この職場にはいないようにも思えた。
みな、自分がミスしないように、またはミスを指摘されないようにと少しずつ嘘をついてしまう場面がある。他人にも、自分にも。
人に迷惑をかけないように。
私もそう言われて育ってきたし、自分の子供にもそう言ってきた。
だけど最近巷では、人に迷惑をかけてもいいじゃないか!
もっと自分の好きなことをしようよ!
みたいな文言をよく見かけて、必要以上に自分を犠牲にしがちな時の自分を思え返せば、その通り!と思ったり、今日みたいに海岸付近に住む後輩が、流氷着岸してますよ!と教えてくれたら、仕事帰りに夕飯の支度をサボって撮影に行きたい衝動に駆られてしまい、実際、もう行こうと決意しているんだけれども、しっかりやることをやってから自分の趣味を楽しむことはいいけど、毎日息子にコンビニ弁当を食べさせてまで、撮影に出掛けることはやっぱりできないよな。とか思う。
自分のことが大事なのはあたりまえだ。
でも、他人のことを大事にしたいのも本当の気持ちだった。
人は他人のすべてを理解することはできなくても、他人に自分を投影して想像することだってできる。そのことを他人の気持ちを慮る。と表現したりもする。
無力な子供が親に虐待されるニュースを見て、子供を憐れに思い、同時に虐待した親に怒りが沸く。
でも、だからってそれを直接目にしていない私が、それが真実なのか確かめる術も、またその事件が起きた背景のことも知ることはできない。
その子供のために自分の時間やお金を使えるのかと言ったら出来ない。なのに、かわいそうだ。親はひどい!と罵る権利が私にあるのだろうかと悩む。
彼女たちは、解決策を私に求めているわけじゃないんだな。
そう思うとなんだか、少し寂しい気がするのは、自分が本当は誰かに尊敬されたり、一目置かれたいと思ってる証拠なんだろうなとなんだかおかしくなってくる。
人より賢くなりたいか。
人に好かれたいか。
人にすごいと思われたいか。
そう聞かれたら恥ずかしいけど、そうです。と答える。
だけどそれ以上に人を不快にさせるのが嫌だった。
でも、他人を不快にさせることよりも、自分の不快を解消することを優先する人がいる。
自分勝手と自由と権利と義務。
その境目を計る共通の定規を作り上げていくことがコミュニケーションの意義というものなのだろうか。
50代の臨時職員の人には、
「私もその場にいたら、
嫌だとは言えないけれど、一瞬
少しムッとしちゃうかもしれません。」
後輩には、
「おまえがなんでもできちゃうから、
みんな甘えてるのかもね。」
と返した。
私に正論なんて、誰も求めてはいない。
だからって、全部を肯定して言いなりになる人を選んでいるわけでもない。
感情を受け取って、自分を正確に映し出す鏡を無意識に人は選んでいる。
そしてその鏡はできれば少しだけ、曇っている方がいいのだろう。

