賢さや思慮深さが人との関わりの中で役に立つのかと言えばそうでもなくむしろ、ある程度、人の心の機微に対して鈍感である方が生きやすいような気がする。人の気持ちを自分の気持ちのように感じてしまうことは、美しい部分や悲しい部分だけではなく、ずるくて汚い部分も想像できてしまうからだ。生物としての目的としての種の繁栄。自分の中にある優秀な遺伝子を競争させて継続させていくという理屈に当てはめれば、利己的になることも納得の行くことだ。協力や協調ということですら、個々の人間が自分の人生をそれぞれ有意義になるべく長く生きるという欲望を叶えるために社会的な行動を取っているはずなのだ。本来は。
人の防衛本能として、苦しさや悲しさという感情の方が思い出しやすい。自分の命の危機を回避するために選択した行動の経験と共に優先的に記憶された感情。だから人は嬉しかったことや楽しかったことを意図的に集めて行かなくてはならない生き物なのかもしれない。悲しく苦しい記憶は逆に絶望という感情に囚われ、生きる力を失わせるからだ。汚い部分が見えてしまうときは、自分の中にもそれがあることを同時に思い出す機会だと思う。その上で受け入れることも拒否することも自分には選ぶ自由があるのだ。利己的で残酷な裏を持つ自分と利他的で優しい表の自分が重なり合って実態になる。好きを色濃くしていくと拒否してしまうものも多くなるけど、そのグラデーションのバランスを日々変化させながら、感情の渦中で右往左往したり、時には思考に専念して俯瞰する。
意味など成さない言葉の力を借りている。他者がいなくては自分の存在すらままならない弱い生物である人間。言葉を作り出した過去の遺伝子が自分の中にいることを思い出す。言葉の創造主であったはずの自分。自分が作ったものにいつしか振り回されるようになった愚かさが笑えた。
