ごんぎつね | 想像と創造の毎日

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        ごんぎつねを読んで

    りりこ  

  小学生のときに好きだった科目は国語でした。理由は単純に教科書の中にある物語を読むことが好きだったからなのですが、算数のようにはっきりとした答えを求められないことがおもしろかったのです。
   小学校低学年の頃の担任は、竹刀を振り回すような暴君でもありましたが、国語の時間だけはなぜか優しかったのです。国語の教科書の文章を読んで、例えば誰かが間違っていると思われる解釈を発表したとしても、そういう感じ方もあるんだな!といつも笑っていたのです。算数の掛け算の授業の時は、九九を覚えられない子をみんなの前でゲンコツしていたというのに。
   「ごんぎつね」は、教科書の中のお話で一番印象深い作品でした。村でいたずらばかりする孤独なキツネのゴンが、兵十という男にも採った魚を逃がすといういたずらを仕掛けて、その後に兵十が母親を亡くしたことを知り、罪悪感にかられ、罪滅ぼしのように毎日栗やマツタケを届けた。しかし、またいたずらに来たと思った兵十は、ごんを銃で撃ってしまう。しかし、土間に置いてある栗の塊を見つけた兵十はそれがゴンがしていたことだと撃ってしまったあとに気付くのです。 
   今改めて読んでみても、罪を償おうとしたゴンが報われなかったことや、兵十が母親を亡くした上に親切だったゴンを撃つことで罪悪感に駆られてしまう場面に生きていることの理不尽さを感じて、心が締め付けられます。 
   ゴンは孤独でした。そして、唯一の家族を亡くした兵十に同じ孤独を見つけた。それは人間にいたずらをすることで、自分の中の孤独を埋めていたのであろうゴンが、自分だけがひとりぼっちではないのだと共感した瞬間だったのだと思います。
   ゴンの子供のような純真さと兵十の一度抱いてしまった不信から来ているのであろう暴力という名の正義。
   ゴンは最後に栗を運んでいたのは自分だったのだと兵十に気づいてもらったことで救われます。兵十は、過去の一度の罪への思い込みだけで、悪人(悪ギツネ?)だと決めつけることの愚かさを知る。
   孤独というものがどれだけ人から素直さを奪っていくものなのか、またそれを共感できるものは同じ孤独を持った人間だけであるということ。
   人は誰でも自分の思い込みから逃れられず、そのことで他人を傷つける可能性をいつでも持っていることに気付いたときに、誰もが生きているだけで罪深い存在なのだと知るのではないでしょうか。
   だからこそ、生きていく意義というのは、あらゆることを赦し続けることなのだと私は思ってしまうのです。

↑私の拙い文筆よりも、コチラの方が
    おもしろいですよ!(;_;)