僕に教えてくれているようだった。
自分はなにものでない、
ただの扉だ。
観察し理解するのではなく、
私を通って命を見つけなさい。
リョウという大学生が、会員制ボーイズクラブのオーナー御堂静香に誘われて、「娼夫」の仕事をはじめるというストーリー。
リョウは性行為に不自由しているわけではなかったけれど、どこかで女の人や性行為に対して冷めた目線を持っていた。しかし、彼は仕事をしながら、様々な女の人の中にある欲望の世界に魅了されていき、やがてクラブの売れっ子になる。
御堂静香は彼をこんなふうに評する。
「リョウくんはどんな女の人からも魅力を見つけることができる。それはひとつの才能かもしれない。」と。
彼は性を通して、女の人の秘められた欲望への好奇心以上に刹那的な瞬間がもたらす心の繋がりにも魅了されていく。彼を指名する客はどの人もある意味、男の人のような感覚でその場限りの快楽にお金を払うことを厭わない。しかし、客の誰もが、彼の中にある受容の大きさのようなものに癒されてもいた。
御堂静香は彼の客との体験談を聞いてこう言う。
「これだけの人間が生きてきて、欲望の種類は無限にある。だけど、すべてはどこかで誰かが試した形のバリエーションに過ぎない。リョウくんのお客が証明したわけではない。それでも今この瞬間に、誰もが自分だけの欲望を生きている。」
彼は自分の性欲を満たすことや、自分の性のテクニックを披露することで地位を上りつめることよりも、様々な年代や容姿を持つ異性たちのその人にしかない心の中を垣間見る瞬間だけを愛したのだと思う。そこにそれぞれの欲望の種類に対する差別心はない。
ふと私は思ったのだけど、これはブログを書くこともそうで、その内容がありふれた日常の日記であれ、自分の趣味のことであれ、そして恋愛の体験談や、例えば商売であっても、それぞれが自分の思考や感性を通した世界を誰かに見てもらいたいという欲望は同じであるような気がした。
読者はそれを自分の価値観や世界観というフィルターを通して、快や不快、共感や反発といった感情と思考を持って、自分の内面を知るのだろう。
ある者はそれを賞賛し、ある者は不快な感情を顕にしてコメ欄なり、自分の記事で文章として表現する。
そこにはそのままその人の他人への距離感のようなものが表れているような気がして、興味深かった。公開された記事への反応の仕方の中にもそれはある。
人は自分と同じと思える思考や感性を持つものに好意を抱き、真逆と思うものには興味を示さなかったり、また自分の嫌な部分を人の中に垣間見て嫌悪したりしている。
自分を認めてもらいたい気持ちで接する者もいれば、自分ができないことをいとも簡単に他人がしていることに嫉妬していることに気付かず、常識を掲げて批判したりしている。
私にとっては、ネコのかわいい仕草も際どい性の描写も同じ価値を持っていた。そして、今ではそれを批判することも賞賛していることもその人の思考を垣間見ることのできる貴重な記録だと思える。
そこに真偽を見極めることよりも、文章の上手さや感性の眩しさや、人へのやさしさや、その人の弱さのようなものをただ感じることの方が私にとっては大事だった。
誰もが言葉を綴りながら、それを読んでもらいたい欲望を持って、ここに存在している。
公開された記事には、それぞれの思考と感性の扉が開かれている。
その言葉の響きや文章のリズムに酔い、自分の知らない知識に感銘を受け、自分にはない考え方にそれはどうしてなのだろうと思い悩む。
私はその扉をそっと開けて、その人の世界をただ覗かせてもらっているだけなのだった。
