見るものでなく撮ったもの。だった。
風景の色や形や、
生き物の目線を息子と追っているうちに
カメラが欲しいと漠然と思った。
それまで私にとって写真は
子供の成長の記録に過ぎなかった。
それでも写真を撮って
思い出に残す意義はわからなかった。
カメラを構える暇があるのなら、
子供たちと一緒にその瞬間を
楽しんだ方がいいし、
運動会や発表会を記録しても、
あとでそれを何回見返すのだというのだろう。
第一、それを大量に残したところで、
残された方は
その処理に困るというものだ。
写真を撮るという行為は
絵を描いたり、文章を書くことにも
少し似ているんだとも今では思う。
自分が見て、感じたものを
表現するものだ。
それは人が心を持ち、それを言語化してきた
過程の延長であるのだとも思う。
意味のないものに意味を持たせてきたこと。
そのことが、
心を持った人というものを
生かしてきたのだとも思う。
食べて、排泄して、生殖する。
原子的な生命の単純な営みに
感情という付加価値がついたのが、
心というものをもった
人の存在意義なのかもしれない。
風景や生き物ばかりにしか
興味を持っていなかったのだが、
本意ではなくとも、デカいレンズで
自分の子供を仕方なしにw、撮っていると、
私がカメラを上手いと勘違いした方たちが、
私にカメラの小さな仕事みたいなものを
依頼してきた。
人を撮るのはあまり好きじゃないのになあ…
そう思いながらも、
カメラを構える行為が好きな私は、
それを引き受けることにした。
練習のつもりで、人にレンズを向ける。
その人の持つ美しさや
人生の岐路みたいなものを
私はどんなふうに切り取ればいいのだろう…
自分と被写体の距離を測りながら、
望遠レンズのフォーカスリングを回す。
そうしていると、
その人特有のしぐさと
その人が反応した世界に触れたときの
表情に自分の心が反応していることに気づく。
まったくハンサムと思わなかった人が、
とてつもなくかっこいい表情をしていたり、
普段うじうじしていて、自信のなさそうな人の
まっすぐな瞳に惚れそうになったり、
逆にいつも威張っている人が、ふとした事で
隙を見せるようなしぐさをする。
あー、私は。
人が流動的に見ている世界で見逃した
時間を止めるようなこの行為を
愛しているんだな…
それは、一瞬という名前のついた
時の流れの一部。
人の目が見逃している世界から
私が心動いた瞬間を止めて、
誰かに見せたい。
それが私のカメラを構えるという
欲望なんだと思う。
どうしてだろう。
ファインダーを除くと、
視界は狭まったぶん、
その被写体だけに
意識を集中させることができる。
物事を深く、遠くまで
見ているような気分になってくる。
心が特定の何かに持ってかれないように
理論的になろうとする思考が
カメラを構えているときだけは
感情に身を任せてもいいような気がしてくる。
これは、私にとって、
文章を書くことと同じ。
自慰行為そのものだった。
息子の部活動の写真を
以前に撮っていたときに
他の子供たちも撮っていたので、
プリントして渡した。
あるお母さんがその写真を見た時に、
涙を流して喜んでくれた。
それは、私も自分ですごいのが撮れた!
と思えるような表情を写しとめた瞬間だった。
負け試合のすぐあとの
諦めにも似た、でも清々しい表情だった。
空を仰ぎ、遠くに目線がある。
その先にはきっと
今までの辛かった練習や、
試合をやり切ったあとの
爽快感のようなもの。
過去と未来を繋ぐ今が
写る瞬間だと思った。
シャッターを切ることに
たいした意味なんてない。
言うなれば今を楽しんで、
感じる行為だ。
レンズの力を借りて、
もっと物事をよく見よう。
もっと目の前の世界に
好奇心を向けていこう。
人を撮ることは、
人に興味を持つことだった。
一番面白いのは。
もしかしたら、人。
なのかもしれないな。
