安らかな死 | 想像と創造の毎日

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写真は注釈がない限り、
自分で撮影しております。




なんの本だったのかは、もう忘れた。
けど、今でもひどく心に響く文章がある。

詳しい文脈は忘れたが、こんな話だ。

ある写真家が自然の原風景が残る国を旅しながら、その土地の人たちに伝わる様々な歴史や伝説を聞いていた話の中のひとつだったと思う。

その話はこうだ。

ある老人が人のいる社会生活から離れて、無人島に住むようになったのだという。
毎日、海で魚を取ったり、木の実を集めたりしながら自給自足で生活していた。

しかし一年に一度だけ、彼はそれでも足りないものを買いに町に出るのだという。

その資金は彼が捕った魚などを売ることで得ていたのかどうかは忘れたが、彼はそんな無人島で暮らす最低限のものを買うついでに、その日までの一年分の古新聞をその町の行きつけのお店の人からもらうのだという。

老人はちょうど一年前と同じ日の新聞を毎日、一部ずつ読み進めることを習慣としていた。
そしてある日彼は、その中に貧しい子供のことが書かれた記事を見つける。

彼は自分もその日暮らしの貧しい身でありながら、自分でもこの子達に何かできないかと考えた。

毎日取った魚や木の実をどうにか届けることはできないだろうか。と。

写真家はその老人の話を忘れることができなかったという。

人との繋がりを避けるようにして無人島に来たのに、社会に興味を持つように新聞を読むこと。そしてそこで読んだ出来事で社会的な生活を捨てたはずの老人が誰かのために、社会のために何かをできないかと考えたこと。

他にもこの写真家のエッセイには、もっと感動的だったり、珍しいような話もあったのだが、私はこの話だけを今でも時々思い出してしまう。

そして私はこの話をここで出会った人たちの記事を読ませてもらうことになってから、なおさら思い出すようになった。

私は欲望に忠実で、そして利己的だったと、ここでますます感じるようになった。

差別が嫌いだと思いながらも、自分の中には無意識の差別心があるのではないか?と感じて嫌悪したこともある。

他人の言動の中にそれを感じて嫌悪するということは、自分の中にも少なからず、そう思う心があるからだ。

私は何をしたくて、何のために、ここで記事を書くのかとここ最近よく考える。

誰かに自分の中の何かを共感して欲しいのか、認めて欲しいのか。

リアルでは出会えない感性や考えを持つ人と繋がりたいのか、理解し合いたいのか。

自分が本当に伝えたいことを言葉にして繋げるということは、どうしてこんなにも難しいのかとも思う。

ここにいる誰かの言葉。
理解できなければできないほど、知りたいと思うのはなぜだろう。

その人の心になることもできなければ、
その人の人生の中に自分が永遠にいられるわけでもないのに。

それでも何かを見つけたいと、

それでも誰かを理解したい、そこで自分の言葉を誰かに響かせてみたい。そんなことを思ってもいる。

見返りのない愛というものを自分の中に作りたい。

そう思いながらもどこかで、いいね!やコメントという名の愛を欲しがってもいるのだ。

それは愛ではなく、欲望だと言われればそうなのだろう。

愛と欲望の境目を考える。

あの老人の過去を。心を。
何度も何度も想像してみる。

そして考えることに飽きて、私はやっと眠たくなる。

子供が眠る時にグズるのは、死を思い返しているからなのだと何かで読んだことがある。

私は毎日、夜に死ぬ。

考えることに飽きたときに、やっと安らかな死を迎えることができるのだ。








白に黒を塗り足して
今はまだ何も見えなくていいよ 描いて 描いてみせてよ
今ココに在るものすべて僕等が壊してあげるから いつでも
「あんたの正義は一体なんだ?」

何度だって声に出して
夢に向かって立ち上がって
壊れたってまた創って
愛を持って生きてくんだ
いつの日にか叶えるんだ

あんたの正義にどこまで覚悟があるかは知らないけど
黙って 黙って 見てなよ
理解されなくてもいい 今はまだ何も見えなくても

拝啓、いつかの君へ
自分の信じた正義なら選んで進んでみせなよ
拝啓、いつかの君へ
今ココにあるものすべて

「あんたの正義に覚悟はあるのか?」
拝啓、いつかの君へ



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