私の街には、冬が3回やってくる。
一度目は、雪が地面を覆って根雪になり、景色が真っ白になったとき。
そこから、寒さは加速していく。
二度目は、昼間の気温がプラスにならなくなり、毎朝、川や湖が全面凍り、粉雪が毎日、少しづつ降り積もる。
それは、確定的な冬。
三度目は、日が長くなり、少しづつ寒さが緩んで来た頃に、北の海の沖からやってきた流氷が接岸したとき。
ピリリと肌が裂けるような冷たい風が、オホーツク海から吹き込んでくる。
それは、春への助走。
今は二度目の冬の真っ最中だ。
北にある山から吹いてくる風が、降り積ったパウダースノーを意図も簡単に舞い上がらせ、すぐに視界を閉ざしてしまう。
こないだは簡単に登れた山も今は、膝以上の積雪になり、少しの刺激で雪崩を起こすような危険な山に変貌していることだろう。
翻って北から吹く風は、遠くロシアから流氷接岸を加速させていた。
遥か沖、水平線と空を隔てるただの白い線であった氷が、たった一晩で海を閉ざし、波を消してしまう様は、何度見ても、息を飲む光景だ。
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ー 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。
自分の受け取り方、考え方ひとつで、この極寒の僻地は、他に類を見ない野生のアミューズメントパークに変わる。
網走から根室へ。
途中、知床連山を貫き、オホーツク海に沿って伸びる国道244号線は、2月に流氷街道となる。
何度も何度も見ているはずなのに、あの目眩がするような暑い夏を通過して、私は都合よく記憶喪失になる。
遥か沖までびっしりと埋め尽くす流氷の壮大さが目の前に飛び込んでくると、まるで初めて見たかのように何度も驚けるのだった。
面白いよな、自分って。
結局のところ、人や何かに対してあれこれ思って、考えても、自分というものが、何よりも一番不可解で、不思議だ。
それでも私は、私というものは、いつでも何でも、最後には面白がれることだけが正義なんだと思っている。
面白いって、バカにしてるような、からかってるようなニュアンスで捉えられることが多いけど、本当の意味は、物や景色や人の様子をそのままで肯定するということだって、Geminiさんが教えてくれました、さっき。
「絶対矛盾的自己同一」は、西田哲学の晩年の思想の中心であり、1939年の論文タイトルでもあります。これは、対立する二つのものが、矛盾したままでいながら、同時に同一性を保っているという論理です。ヘーゲルの弁証法とは異なり、矛盾が解消されるのではなく、矛盾そのものが存在し続けるという点が特徴です。
ー 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。
絶対矛盾的自己同一的世界は何処までも自己自身の中に、自己同一を有つことはできない。それは作られたものから作るものへという歴史のイデヤ的形成の契機として、含まれるものでなければならない。我々の自己が歴史的制作的自己として実在を把握し行く所に、具体的論理というものがあるのである。そこに多と一との矛盾的自己同一として我々が含まれている世界が、自己自身を明にするといい得るであろう。我々の意識は自己矛盾的に世界の意識となるのである。ー

