KOOKOO's SHADOW - Am I hiding in the shadow? Or are we all hiding in the shadows? -13ページ目

KOOKOO's SHADOW - Am I hiding in the shadow? Or are we all hiding in the shadows?

HAVE I JUDGED A BOOK BY HOW IT'S BOUND?
AM I LOST OR AM I FOUND?
ARE YOU WITH ME?


私は、重度のうつ病と診断された際、強迫性障害をも伴っているものと認識した。

強迫性障害とは、胸に突き刺さるような言葉が、後頭部の方で残り続けるだけではなく、だんだん押し迫ってくるようで頭を抱え込んでしまうような状態や、何か会話をしている時に、ある言葉が出てこないド忘れに対して、引っ掛かり、その言葉が出てこないことを苦しみ続け悩み、出てくるまでズーッと不安感や恐怖感を抱いてしまう厄介な症状である。

何かに引っ掛かると、そこで思考回路が止まったかのように周りがわからなくなる。記憶力に自信があった故に起こる「こだわり」なのか執拗に囚われてしまう苦痛である。


そのモヤモヤは脳内でグニュグニュと動き回り、残り続ける。


その感情の初期段階の症状を画像に表すとこんな感じなのかもしれない↓





私にとって、人間関係において、最も重要視しているのは、「信頼」である。


「信頼」できる人格を見抜くには、見抜く目が必要となる。


「信頼」とは、その者の姿勢・態度・言動・行動からあからさまに映し出されるものであるが、見抜く「目」が備わっていない者にとっては、とんでもない結果が待ち受けている。 それも「学習」のひとつである。


人によっては、「信頼」を得るために、あれやこれやと「企てる」者がいるようだが、そもそも、誠実さに欠けた者には「信頼」などついてこない。 どんな言葉を並べてみても全くかみ合わず、己で己の未熟さを披露しているに過ぎない。 「学習」とは「猿真似」ではなく自己で消化し生み出すものである。




正直な意見を必要な時に発言できるか 

秘密ごとを実際に墓場まで持っていけるほど口が堅いか 

約束事がある場合、どこまで誠実に対応できるか 

物事の捉え方に、公正さを持っているか  

自己の姿を客観視できる能力があるか


それらが備えられた成人には、いくら連絡をとっていない期間が長くとも、その者が育んだ人格はそう簡単に崩れない強さを秘めているため、ある種の結束が続いているものと信ずる。
 

その中で、それぞれが、それぞれの心地よい距離を持って独立しているのである。

それで、充分である 私にとって







私は、重度の精神病を伴う、うつ病を○年患っています。

持っている症状も様々で、慣れてしまったものもあれば、まだうまく対応できないものもあります。


立ち上がっただけで、トイレで壁を見ただけで、時として、家から外に出ただけで、突然起こる「めまい」も、その症状の一つで、昔に比べれば、できるだけ防げるようにはなったものです。


パニック障害の方も見られるもので、医療関係冊子にアン・○イスさんが、「突然、壁に模様が浮かんで押し迫ってくる」という体感も私自身、何度も味わいました。


ここに↓に載せた動画は、本来トリックものとして数年前から投稿されているものです。画面を最大限に拡大し、約90秒の間、真ん中だけをジーッと観ていて下さい。動画が終わったら画面から目をそらし壁を見てみて下さい。







これが「めまい」であり、予期することなく現れると、非常に気分が悪くなります。 私は「不眠症」による睡眠障害に対する治療で頻度は軽減されました。


健康な方にとっては、「おもしろいトリック動画」でしょうが、これを当事者の意思に関係なく、起こる現象として捉えると、平衡感覚を大きく左右する、とても不愉快なものです。

そして、これは、ほんの一部にしか過ぎません。 

もっともっと酷い、様々な症状があり、まさに、かかった者にしか、わからないものがたくさんあります。


私には、他の人に、わかってもらおうという意思すらありません。 


これは私の記録ノートです。

ネット時代が創り上げた、YouTubeでの爆発的ヒットの連続によって、あのパリス・ヒルトンよりも有名になったと呼ばれるキャトリン・べル(オーストラリア人)がまた最近活動を始めた

カヴァーソングにも磨きがかかり美しい歌声と独特な人柄はこの曲にも表わされている マルーン5の「This love」




俺の見た目が悪いだと? 

病人みてぇだと?

そんなことに気にもしてねぇ

今まで一度だって気にかけたことねぇし

これからも変わらねぇ

ただ時間というものに枠があるらしく

制限時間が迫ってくると

俺の人生は 

破滅の一歩手前になるようだ

周りにとっちゃ

俺の時間もあと少しだと…

時間がどうであろうとも

どんなことがあろうとも

俺は抵抗するぜ

降伏なんてしてたまるかよ

何があっても

降伏だけはしねぇからな


夕日は、それだけで美しさを放っている

1本のバルブを介して覗いてみると、

そこには不思議な世界を覗くことができる





この社会では、

T  ・・・ Time  時
P ・・・ Place 場所
O ・・・ Occasion 場合

に応じて、服装を変える (TPOはあくまで和製英語) という慣習がある


メンドクセーっとは誰しもが抱いていることかもしれないが、

日常の中で、ちゃんとこなしている良い例をここに↓







もう既に、話題のオリンピックは、幕を閉じてしまったが、私の頭の中で整理したい事柄がある。

特に、オリンピックというものは、選手、個人個人が幼い時から、強い希望を抱き、目標に向かって、毎日毎日訓練を行い、技を磨きあげ、個人の可能性に挑んでいる姿を披露する、美しい舞台である、と捉えたい。

そこに、選手、一人一人の特徴が、観客・視聴者にダイレクトに表現されるもので、スポーツマンシップにのっとれば、勝敗などは、美しさの対象にはならない。


そもそも、メダルを何個とったかなど視野に入れると、国単位で見ると、余計なものが付随してくる。

開催される8年以上前から、各国々が、やっきになって自国で行われることを争い(2020年の第一次選考通過国は、日本・トルコ・スペイン)、大きな経済効果を求める行為としても浮かび上がってしまう…

それぞれの国で、選手に対する支援も違う。 スポーツマンシップ以外の野心をも植えつけるほど大きく力を入れている国もあり、それは明白である。 (Fxxk China)


余計なものが入ってくることは、やはり「邪魔」以外にない。


「どこそこの領土はどこそこのモノ」などといった政治的メッセージは、ルール違反であり、非常に気分を害するものである。 (Eat shit, Korea)


やはり、どの競技であろうとも、国を超え、肌の色に関わらず、一人一人の、にじみ出る「美しさ」に目を向けることが、私には、何ら抵抗のない見方になる。


スポーツを芸術的に観るほうが、私には都合がイイようだ。

児童の「いじめ問題」が続々と取り挙げれられているが、この問題は、何十年も前から、起きている問題であり、年々増えるばかりである…

「人間」という「生き物」は、環境に大きく影響されるものであり、なんらかの集団社会の一員として生まれ、その社会での慣習を学びながら、適応するように育つ「生き物」である。

生まれたばかりの幼児には、「人をけなす」とか「嫌がらせ」「いじめる」という行為など知る由もない。


では、いつから、どのようにして、「いじめ」行為を学んだのだろうか?


ここに、社会を創り上げてきた「大人」が、「監督者」としてとる責任は大きく存在する。

「いじめ」行為たるものを、存在しているにも関わらず、それを「問題」として捉えず、あるいは、問題とは認識しているが、それを「無視」「軽視」「放置」「黙認」「容認」している態度・対応にも大きな問題点がある。


何のために、「監督者」がいるのか? その「監督者」の「任務」とは何なのか?


「監督者」とは、国を治める政治家・国家公務員、会社の経営者・管理職、学校の教員、家庭を持つ親、あらゆるところで、その責任を負うべし地位に立つ者である。


国民の安全と生活を保障するには何をすべきか? 会社の人事は何のために存在するのか? 教員は何を指導するべきか? 親は子供にどんなしつけをすべきなのか?


「いじめ」に関わる行為は至る所で存在している。 


ある数人が、特定の人物に「嫌がらせ」を行い、それを楽しんでいる一方で、周りは、その「問題」に対して、「自分には起きて欲しくない」「関わりたくない」「関係ない」と何もしない…


お茶の間で、茶番劇として、芸人がいじめられて、おもしろおかしいものとシナリオされているのは、一体何の意味があるのだろう? それは、観ている大人への、職 場でのストレス発散のために作られているのだろうか? 姑にいびられた嫁の欲求不満解消のためにあるのだろうか? ストレスを抱えた上司が、この手で部下をいじめてやろうという見本を示しているのだろうか? 学校で、実際に行うと皆にウケルだろうというネタのためにあるのだろうか?


テレビの放送内容を自粛すべきか、または、観ている者達の中で、これはいけない事と常に認識し、とるべき行動ではないと、教育すべき事柄なのか?



「いじめ」行為の根源は、至るところに存在し、その魔物が及ぼすものは醜く、あまりにも卑劣である。


「自殺」とは、「自分」で「自分という一人の人間」を殺害する「殺人行為」である。 
「自殺」にまで追い込んだ「いじめ」の加害者は、その殺人行為を行わ せた悪人であり、「いじめ」行為を放置していた「監督者」は、与えられた任務を怠った罪人である。 止めれるものを止めなかったのだ。


過去に、どれだけの人々が被害にあい、泣き寝入りするだけとなっていたのだろうか…



これから、どれだけの「いじめ」の被害者が出てくるのであろうか…




昨今では、あらゆる手段を使ったが解決方法が見いだせなかった遺族による、加害者・監督者である責任者への「告訴」という刑法にまで踏み切ったことによっ て、責任追及を起こしている。 

全ての法は、社会の秩序を、守るため、守られるために作られている。 

人の命が尊いものであるならば、「殺人」に関与す るものに対して、「法」の「適応外」とか「時効」などという逃げ道を与えてはならない。 

さもなくば、この「魔」の根源を永遠に絶つことなどできないであろう…


また、この「魔」とは、この社会に属する個人個人の奥底に潜む邪悪であり、各々がしっかりとした認識を常に抱き闘っていかねばならぬ「悪」である。


「悪」に対して闘うことは、尊いことであり、人として生きる「誇り」である。


「悪」を許してはいけない。 


闘うことを決して諦めてはいけない。